姉の名前を名乗る妹 |
テレビでは明るい口調と笑顔でおなじみのタレントの風見しんごさんは、平成19(2007)年1月17日、小学校5年生だった長女のえみるさんを交通事故で亡くされました。あと1カ月で11歳の誕生日を迎えるはずでした。朝、えみるさんが元気に学校へ向かうために、元気に家を出た直後に起こった事故。その事故の三週間ほど前、しんごさんの義理の弟(妹さんのご主人)を見送った同じ葬儀会場で、今度は娘の葬儀を出すことになったのです。
笑顔が満ちるように…という願いが込められて名付けられたえみるさんの突然の死は、風見夫妻から笑顔を奪いました。
それでも風見さんはテレビ、ラジオ、舞台などのお仕事がありますから、家の外では笑顔でいなくてはならない時もあります。仕事を終えて帰宅後、えみるさんが生きていた頃の幸せと、今はもう目の前にいないという現実との狭間に揺れて、しんごさんはよくお風呂でシャワーを浴びながら、号泣していたそうです。 |
頭がおかしくなってしまいそうだった。
どうして身代わりになってやれないんだろう。昨日の夜、おやすみのとき、「絶対に俺が守ってやる」と約束したのに。
神様、なぜ僕じゃダメなんですか。二人で手をつないで渡った横断歩道を、翌朝渡りきることができなかったなんてそんなことあっていいはずがないじゃないですか。
なぜだ、なぜだ、なぜだ……。
ひどく混乱した頭で今からでもえみるが戻ってくる方法はないのだろうかと真剣に考えていた。
引用文献:
風見しんご(2016)『さくらのとんねる 二十歳のえみる』青志社, p.42 |
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母 尚子さんは毎夜玄関に立ち、えみるさんが塾から帰ってくるはずの方角を眺めるようになりました。なぜなら事故の前日、しんごさんとえみるさんは手をつないで帰宅したそうで、角をまがったところの二人の作る影が、忘れられなかったからでした。記憶を反芻することによって、在りし日の父娘の仲良い姿を心にとどめておく、そういう妻の気持ちを風見さんはよくわかっていました。
尚子さんの身体には、当時の辛さを象徴するように激しい頭痛や円形脱毛症が現われるようになりました。やがて、泣きたい時に思い切り泣くようになった尚子さんは、しんごさんの知らないえみるさんの思い出を話してくれるようになりました。 |
自分の気持ちを素直に吐き出すようになったハハは少し強くなった。そして見守ってくれているであろうえみるをたくさん感じるようになっていった。
引用文献:前掲書, p.58 |
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えみるさんには三歳の妹 ふみねさんがいました。大好きな姉を突然失ったことは、ふみねさんにも大きな打撃でした。しかしこどもながらに、親の深い嘆き察していたのでしょう。えみるさんの葬儀から数週間後のこと、ふみねさんは自分を「えみる」と言うようになったのです。それはしんごさんと一緒に家の近所を歩いていた時、近所の人から声をかけられ、名前を尋ねられたときのこと。ふみねさんは自分の名前を「えみる」と言うのです。それは父 しんごさんが正しても、ふみねさんは言い張りました。なぜ、姉の名を次女が名乗るのか…しんごさんはふみねさんに真意を問いただしました。 |
「だって、ワタシがえみるだったら、大人の人たちはもう泣かないでしょ。だからふみねは、えみるでいいの」
引用文献:前掲書, p.51 |
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ふみねさんは幼心に一生懸命考えていたのですね。 |
それを聞いた瞬間、言葉を失い、涙が溢れた。僕はその小さな体を強く抱きしめてやることしかできなかった。
僕らの気遣いが不十分だったために、自分がいなくなってもいいなんて思うくらい追い詰めてしまっていた。かまって欲しい盛りの三歳のふみねに、周りはえみるのことばかり。
引用文献:前掲書, p.51 |
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ふみねさんの言葉は、風見夫妻に大きな気付きをもたらすことになりました。それと共にふみねさんによって、風見夫妻の心は助けられていったのです。それはふみねさんがある時期から、毎日屈託なく姉との思い出を語るようになったことがきっかけでした。 |
ふみねに背中を押されるようにして僕たちは、「それだったら、思い出すと辛いからといって逃げないで、どっちみち辛いんだから、ふみねと一緒にえみるのこと、いっぱい話そう」と決めた。それが大きかった。
まだ幼いふみねが、そのきっかけを作ってくれた。あのとき、もし、ふみねがねぇねの話をすることを躊躇っていたら、今があっただろうか。
「もういいよ、思い出すと悲しくなるから」ではなく、「とにかく吐き出そう、喋ろう、家族で。ふみねがねえねの思い出を言ったら、それに乗っかってみんなで、喋ろう」と、妻と話し合ったことが結果的に良かった。(略)「そのことには触れないようにしよう」ではなくて、逆に家族のあいだではどんどん触れていこうと話し合ったことが結果的にすごく良かった。
生きていくなか、いつか正面からえみるの死、彼女がこの世にいないことに向き合わないといけない時期が必ず来る。正直言って、命が「無くなった」のと、「奪われた」のでは、やっぱりすごく感覚が違う。
でも、現実はやはりそんな感情も含めて、えみるの交通事故死に向き合っていかないといけない。
引用文献:
引用文献:前掲書, pp.59-60 |
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やがて風見夫妻は希望を見出すようになっていったのです。 |
本当に辛くてしんどいとき、頑張って顔をあげ、前を向くには、ほんの「かすか」でも構わないから希望が必要です。
しばしば希望は光にたとえられます。深い悲しみの淵からどうにか少しでも這い上がり、かすかでも希望を持つことで光がみえるようになる……。
そしてその希望が、さらなる希望へとつながり、強い光となって僕たちの足元を明るく照らしてくれる。その希望の光となる火種が消えてしまわないように、みんなで肩を寄せ合い、みんなの手のひらで包み込むようにして希望の灯を燃やし続ける……。
それが希望を持つということだと、チチは思うのです。
僕らにとって、最初の火種となってくれたのが、ふみね、きみでした。きみがいてくれるから、チチもハハも天国にいるえみるからのメッセージに気づくことができました。栃木、広島のじいじとばあば、兄弟、いとこたち、周りの先輩や仲間、友人、知人… たくさんの励ましの中にある優しさを素直に受け取ることができました。
きみがいてくれる奇跡にチチとハハは救われました。
ふみね、本当にありがとう。
引用文献:前掲書, p.13 |
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そして変わっていく父や母と共に、ふみねさん自身も変わっていったのです。 |
でも、現実はやはりそんな感情も含めて、えみるの交通事故に向き合っていかないといけない。もう、天国に旅立ったんだということを受け入れることは必要だった。
そのきっかけを、健気な笑顔で作ってくれた小さなふみねに感謝している。
ふみねも変わっていった。チチとハハの落ち込みように、自分もなんとかしなきゃ、ウチはダメになる、と幼心にそう感じたのかもしれない。
えみるがいたときは、ふみねは、えみるの影に隠れて後ろから顔だけ出しているようなタイプの妹だった。引っ込み思案というわけではなかったけれど、お姉ちゃんの後ろで隠れて様子を窺うような子だった。そのふみねが、えみるがいなくなって一年くらいしてからは、すっかりえみるになった。
前に立って守ってくれる人がいきなりいなくなって、これからは、自分で受けて立たざるを得ないことを、小さいながらどっかで感じたのだと思う。だから、そんなとき僕と妻は、「あ、えみるが入ったね」と、よくそういう言い方をして、ふみねの明るい変化を見つめていた。
引用文献:前掲書, p.61 |
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風見夫妻は、ふみねさんをえみるさんとして見ているわけではありません。ふみねさんは、ふみねさん。だけど、ふみねさんの成長をえみるさんが見守って、後押ししてくれている…そのような気持ちでいるのかもしれませんね。 |
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きょうだいとの死別はお子さんにとっても、大きな打撃。親も子もお互いそれぞれから気付きを得て、一緒に頑張っていけば良いのだと思います。 |
2017/10/3 長原恵子 |