病児・家族支援研究室 Lana-Peace(ラナ・ピース)
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お子さんを亡くした古今東西の人々
子を亡くした心の疼きを感動へと変えた父

こちらで昆虫学者ジャン=アンリ・カジミール・ファーブル氏が長女と長男を亡くした時のお話をご紹介しましたが、今日は次男のアンリ=アンドレ・ジュール(以下、ジュール)のお話を取り上げたいと思います。

ジュールは1861年4月11日、ファーブルの6番目の子、次男としてアヴィニョンで誕生しました。当時ファーブル家には長女、長男亡き後、11歳を頭に三人の女の子がいました。きっとみんな、小さなママのように新しく加わった弟のことをかいがいしくお世話をしたり、一緒に遊んだり、賑やかだったことでしょう。ジュールは大変聡明なこどもでした。科学、文学、昆虫、植物が大好きで、観察眼と洞察力に優れた少年でした。目を閉じてほんの少し植物に触れただけでも、その名を正しく言い当ててしまうエピソードを、父ファーブルは友人宛の手紙に綴っています。ジュールが成長した暁には、きっと自分の右腕になって共に研究を進めることができるだろうと期待を寄せていたことでしょう。

そんなある日、ジュールの身体に異変が起こりました。病名は悪性貧血。この病気は胃粘膜の萎縮により、ビタミンB12の吸収を手伝う内因子の生成が低下し、体内でビタミンB12不足が起こってしまうものです。赤血球を作る時、ビタミンB12は大切な役割を果たしますが、この不足により赤血球は大きくて未熟なものになってしまいます。貧血の前に「悪性」とついていますが、この病気の治療が確立されたのは1920年代以降であり、ジュールの生きていた時代はとても厳しい経過をたどる病気だったのでした。父ファーブルは息子の病気を何とか治したいと思い、転地療法を試みました。良質の酸素を得られる場に身を置けば、未熟な赤血球ばかりになっている息子の身体も少しは症状が楽になるのではないか、と考えたのでしょうか。ブナや松林に囲まれたドローム県の山奥の静かな村、ロシュフォール・サムソンへと向かいました。父の愛情と願いが通じたのか、ジュールの病状は一時良くなる兆しが見られました。しかしそれも長くは続きませんでした。かつて庭を駆け回り、自分の研究を手伝い、植物をこよなく愛していた息子が力なく床に臥せる姿に、ファーブルは胸が締め付けられる思いだったことでしょう。息子の命の炎がもう幾ばくも残されていないと感じたファーブルは、自分の友人ドラクールから送られてきた球根をジュールに見せてあげたのでした。自然の香りと共に湧き立つような心の昂揚を、息子にほんの束の間取り戻してあげたかったのでしょう。その時のジュールの様子をファーブルは、ドラクール宛の手紙に残しています。

私のいとしい子供は死につつあります……。送ってくださった素晴らしい花の球恨を彼に見せました。ほほ笑みが、この世での彼の最後のささやかな喜びのしるしとなりました。


引用文献 1:
イヴ・ドゥランジュ著, ベカエール直美訳(1992)『ファーブル伝』平凡社, p.76

日に日に弱っていく息子の姿に心を痛めながらも、ファーブルは父として精一杯の愛情を尽しました。そして1877年9月14日、ジュールは16年の生涯を閉じたのでした。

長女、長男が亡くなった頃、まだ父ファーブルは若さあふれる20代前半でした。当時、学問の基礎固めとキャリアアップを目指して打ちこんでいた勉学は、死別の悲しみを昇華させる一つの手段であったのかもしれません。しかしあれから約30年の月日が過ぎて、ファーブルも53歳になっていました。気力、体力は若い頃のようにはいかなかったかもしれません。翌年の1878年冬、厳しい寒さもあってファーブルは命が危ぶまれるほどの重症の肺炎になり、長く床に臥せました。ジュールを看取った頃、父ファーブルはちょうどに『昆虫記』第一巻を二、三行書き始めていたばかりでした。肺炎で力なく横たわる時、『昆虫記』を未刊のままで終わらせるわけにはいかない……そんな風に彼は焦りを感じていたのかもしれません。

ジュール亡き後、傷心の時期に父の研究を支えてくれたのは、次女のアンドレア=アントワーヌ(アントニア)でした。そのおかげもあって、ついに1879年『昆虫記」第一巻が刊行されました。ファーブルから娘への感謝がどれだけ深いものであったかは、その本の中に現われています。まだ知られていないハチだ、と彼が考えたハチに娘の名前を付けたのですから。そのハチの形態・特徴に関する報告の末尾に「記載者は本種を昆虫研究の上でしばしば貴重な協力をしてくれた娘のアントニアに捧げる。(※1)」と記し、1879年「アントニアツチスガリ」と命名(※2a)したのでした。

ファーブルにとって『昆虫記』を執筆すること、それは昆虫を愛した息子に語りかけ、知識を分かち合うような時間に等しかったのかもしれません。ずっとジュールのことが頭から離れなかったことでしょう。『昆虫記』第一巻には「アントニアツチスガリ」の他にファーブルが命名したハチが登場します。1879年に命名された「ユリウスツチスガリ」「ユリウスハナダカバチ」「ユリウスジガバチ」(※2b)です。これら3つに共通するのは頭についている「ユリウス」ですが、これはまさに息子ジュールのラテン語読みをした名前です。ファーブルは『昆虫記』第一巻付記に次のような思いを記しています。

記載者は、これら三種の膜翅目が息子ジュールの名を持つことを願うものであるゆえに献名する。

可愛い息子よ。あんなに小さい時から熱烈に花と昆虫を愛し、歓喜にひたっていたお前は、私のよき協力者であった。お前のするどい眼は何物も見逃さなかった。

お前のために私はこの本を書くことになっていたし、その内容を話すと喜んでくれていた。そしてお前自身がいつかこの本を書き継いでくれるはずであったのだ。

それなのに、ああ、お前はよりよき住み処に旅立ってしまった。この本の冒頭しか知らずに。

せめてお前の名が、お前のあれほど愛した働き者の美しいハチの仲間のいくつかのものにつけられて、この本に載らんことを。


オランジュにて
1879年4月3日 ジャン=アンリ・ファーブル


引用文献 2:
ジャン=アンリ・ファーブル著, 奥本大三郎訳(2005)『完訳 ファーブル昆虫記 第1巻下』集英社, p.271

16歳で旅立った息子の名がハチの名前と共に語り継がれること、それはこの世で未来永劫続く命を得たかのように、父ファーブルには感じられたのかもしれません。第一巻に続き1882年、ファーブルは『昆虫記』第二巻を刊行し、巻頭で亡き息子への思いを綴りました。そこには息子を恋しく思う気持ちを仕事へのエネルギーに変え、息子を心に携えて共に歩んだ父の姿が滲み出ています。

息子ジュールへ

いとしい子よ、あんなにも昆虫が好きであった私の協力者よ、植物に関してあんなにも鋭い目をもっていた私の助手よ、おまえに読ませるために、私はこの本を書きはじめたのであった。おまえをしのびながらこの仕事を続けてきたのだ。そうしておまえを失った悲しみのうちにこれを続けることであろう。

ああ、死とはなんと忌わしいものであろうか、輝かしい真っ盛りの花を刈りとってしまうとは。

おまえの母や姉たちが、おまえの大好きだった野の花の花冠を、おまえの墓に捧げに行く。
たった一日の太陽にしおれてしまうその花冠に、私はこの書物を添えておいた。

これにはおそらく、明日という日があることであろう。「彼岸」 での目覚めをかたく信じている私には、こうしていると、おまえとの協同研究を続けているように思われるのだ。


引用文献 3:
ジャン=アンリ・ファーブル著, 奥本大三郎訳(2006)『完訳 ファーブル昆虫記 第2巻上』集英社, p.10

いつか自分が死んだ時、息子に再会した時に何と語りかけようか……そんな思いを馳せながら研究に没頭したのかもしれません。

ジュールへの思いはその後のファーブルの人間性に大きな影響を与えていきました。ジュールの死後随分経ってから、ジュールよりも6つ年上の四女クレールの二番目の赤ちゃんがとても危ない状態になった時のこと、知らせを受けたファーブルは、次の手紙を送っています。

小さな病人がよくなったのではないかと期待して、天気が良い日がくるたびに、おまえたちが来るのを待っていた。そうしたらどうだ、痛ましい手紙を受け取ることになってしまった!瀕死の
状態というじゃないか!しかし、まだ希望は捨てないことにしようね。これまでにも、医者がけっして間違いをおかさぬ権威者であったわけではないのだから。

とはいえ、絶望はしないにしても、おまえの苦痛を心から分かち合うよ。ああ、私はおまえを知っているもの、どんなにかたいへんな苦痛を味わっていることか。こんな不幸は人生の一つの挫折だ。

そうだとも、おまえの言うことはぜったいにもっともだ。まるでこの世が似つかわしくないとでもいうように、むごたらしい運命が真っ先に奪ってゆくのは、素晴らしい知性をもった者たちなのだ。我が家でもそのひどい例が一つあったね。
あれから12年の歳月が流れたというのに、今だに心がうずくよ。あの頃、私がおまえたちに朗読させたマレルブのたいへん感動的な詩のことを思い出してごらん。

「もっとも美しいものが最悪の運命をもつような世界に
 バラは属していたのだ
 そしてバラは、バラたちの人生を生きた朝という
 束の間の人生を」

人生の突発時は、いかに許しがたくとも、よそにつぐないをもつものだ。これは私の心底からの確信だ。そして、いろんなことを経験して、毎日その確信が大きくなってゆく。この確信をおまえももっている。この確信のなかだけに、一時の苦しさに対するいくらかの慰めを求めるべきだし、慰めが見つかるはずだよ。(略)

引用文献:前掲書1, pp.189-190

ファーブルが12年経っても心が疼くと表現したのは、ジュールの死を指していると考えられます。長女、長男、そして12年前の次男の死。そうした苦しい日々を経験してきたからこそ、瀕死の状態の我が子を前にした四女クレールの苦悩が、父ファーブルには手に取るように伝わってきたのではないでしょうか。

それから長い年月を経た後、ファーブルの晩年、親交を深めたルグロ博士はジュールのことを思うファーブルについて「彼の心に恐ろしい空虚ができ、もはやそれを埋めることはできなかった。30年たってもなお、いかにそれとない暗示であっても、その度にこのいとしい子の姿が自に浮かび、感動に心をしめつけられ、全身をわななかせるありさまであった」(※3)と振り返っています。
ここで注目したいのは、はジュールの死の12年後はまだ「胸の疼き」であった感情が、死後30年経った頃には「感動」へと変わっているところです。心の中のジュールと共に歩んだ研究の時間、それはファーブルの心の視線の行く先を変える働きがあったのかもしれません。息子と同じ志を持ち、同じ目標に向かって研究を進めていくこと、それは決して孤独な道ではないのですから。そうした時間を積み重ねることにより、息子の命を思う時、悲しみや憐憫だけではなく、愛おしさに父としての誇りを重ね合わせ、感動へと変えることができたのではないでしょうか。

 
<長原 注>
※1 前掲書2, p.266
※2a,b 当時、ファーブルがまだフランスの昆虫相に知られていないと考え命名した4種のハチは、いずれも既に先行記載されていたハチであることが、後に明らかになっています。

「アントニアツチスガリ(Cerceris antoniae)」
1833年先行記載・Cerceris flavicornis(前掲書2, p.265)。

「ユリウスツチスガリ」
1807年先行記載・アカツチスガリと同種(前掲書2, p.266)

「ユリウスハナダカバチ」
1809年先行記載・スジハナダカバチ(前掲書2, p.267)

「ユリウスジカバチ」
1856年先行記載・テルミナータジガバチ(前掲書2, p.270)
   
※3 前掲書1, p.76
 

<参考文献>

イヴ・ドゥランジュ著, ベカエール直美訳(1992)『ファーブル伝』平凡社
G.V.ルグロ著,平野威馬雄訳(1988)『ファーブルの生涯』筑摩書房
今田敏(1956)『ファーブル 上』日本書房
奥本大三郎(1999)『博物学の巨人アンリ・ファーブル』集英社
奥本大三郎(2014)『ファーブル昆虫記 いのちって、すごい!』NHK出版
奥本大三郎(1999)『博物学の巨人アンリ・ファーブル』集英社
露木陽子(1951)『 偉人物語文庫:48 ファーブル : 大昆虫学者』偕成社
平野威馬雄(1965)『世界伝記全集15 ファーブル』ポプラ社
 

我が子の死を惜しむ気持ちは決して消えるものではないけれど、我が子の命を誇り高く思い出す心の行方が、遺された親が生きていく上で必要なのだと思います。

2019/3/6  長原恵子
 
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