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アート・歴史から考える死生観とグリーフケア |
手形・足形付土製品ほか
(北海道恵庭市・柏木川4遺跡) |
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品名: |
手形・足形付土製品 |
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2019/6
恵庭市郷土資料館にて当方撮影 |
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出土: |
北海道恵庭市柏木川4遺跡(KP-397) |
時代: |
縄文時代晩期後葉(約2,500年前) |
展示会場: |
恵庭市郷土資料館(北海道恵庭市 2019/6当方撮影) |
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2018年5月、北海道
函館市縄文文化交流センターで垣ノ島A遺跡と豊原4遺跡から出土した手形・足形土製品に出会って以降、手形・足形土製品についていろいろと調べる機会が増え、北海道恵庭市の柏木川4遺跡からも手形・足形土製品が出土していたことを知りました。当初、北海道立埋蔵文化財センターに展示されているのかと思って問い合わせしたところ、既に地元に返却されているとお返事をいただき、改めて2018年10月に恵庭市に問い合わせすると郷土資料館に実物が常設展示されていることがわかりました。函館では2遺跡のうち展示数の多かった垣ノ島A遺跡の手形・足形土製品は残念ながらすべて複製だったので、恵庭の土製品、早く見に行きたいなあと思いつつ半年ほど過ぎ、2019年の6月ようやく恵庭市郷土資料館で見ることができました。今日は柏木川4遺跡から出土した手形・足形土製品のお話を取り上げたいと思います。
柏木川4遺跡は北海道の新千歳空港から北西に15kmほど向かったところ、道央自動車道と陸上自衛隊北恵庭駐屯地に挟まれた位置にあたる柏木川右岸から見つかり、現在は柏木川第一遊水地になっています。平成17-18年度、柏木川基幹河川改修工事に伴い北海道埋蔵文化財センターによって発掘調査が行われ、数多く発掘された遺物の中に手形・足形土製品も含まれていたのでした(※1)。2019年6月、私が北海道恵庭市郷土資料館を訪れた時、この手形・足形土製品は仲良く1枚の鏡の上に並べて展示されていました(写真1,
2)。館内解説パネルにはこれらが見つかった土壙全体の写真(写真1,
3)があり、手形・足形土製品の他に小型土器等も見つかったことが記されていました。そして後に発掘調査報告書を手に入れて調べてみると、それらの土器はとても美しい造形で、しかもあたたかい雰囲気を持つものだとわかりました。
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手形・足形土製品の他に土器5点、石斧1点が見つかったのは、柏木川の段丘崖から約20m離れた地点にあった縄文時代晩期の土壙でした。KP-397と称されたその土壙は長径78cm、短径54cm、深さ32cmで楕円形を呈しており、丸みのある土壙底が築かれていました。KP-397から人骨は見つかっていませんが、恐らく埋葬されていた土壙内の土の酸によって溶けてしまったのでしょう。土壙の形態や出土した土器等の様子から、かつてここに人が埋葬され、土器、土製品、石斧は副葬品として埋納されたものと考えられます。
展示会場では手形・足形土製品と共に出土した土器などが見当たらなかったのですが、2007年に北海道埋蔵文化財センターから刊行された調査報告書第249集の口絵の写真はとてもわかりやすくまとまっていたのでご参照ください(写真4)。報告書の出土遺物の写真は全体的に赤茶色っぽい感じがしますが、実際資料館で目にした手形・足形土製品はこの写真よりもトーンが暗く、黄土色が強い印象を受けました。色の違いはありますが、ひっそりと資料館の展示ケースの中に佇んでいた実物の手形・足形土製品は強い存在感を放っていました。
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KP-397は黒色土と暗褐色土の二層の土に覆われていました。この上位の覆土、黒色土から石斧が見つかり、土器5点と土製品2点は下位の暗褐色の覆土を掘り進めて見つかりました(写真5)。遺物の胎土(原材料として用いられた土)は肉眼観察から同一(※2)と判断されました。また、覆土の炭化物は2550±30yrBP、土器内の炭化物は2870±30yrBPの値が出ており、出土遺物から縄文時代晩期後葉、V群c類土器の時期の土坑墓(※3)と考えられています。 |
■石斧
泥岩を打ち欠いて成形された石斧は長さ7cm、幅6cm、厚さ0.5cmで、南北方向を向いて水平な状態で出土しました。表面から裏面にかけてやや赤く変色しているのは被熱のため(※4)だそうです。
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■鉢
まるで小さな土器たちを守るかのように上に置かれていた鉢は、開口部を斜め上にし、割れて上下にやや潰れた状態で見つかりました。論文には土器は赤彩されていたことが記されていました(※5)が、どんな材料を用いた彩色だったのか気になるところです。土器の高さは17cm、その口径は25cmで、直線や曲線、丸が組み合わされ、まるでクッキーを貼り付けたかのような楽しい雰囲気でとても躍動感のある装飾です。土器の底部は出土時欠損しておりその破片も見つかっていませんが、焼成後に穿孔した(※6)と考えられ、復原作業により土器の底は抜かれた状態で埋納されたことが確認されています(※7)。
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■小型浅鉢
大きな鉢の下から土壙底に伏せられた状態で小型の浅い鉢が見つかりました。若干ひびが入っていたものの、完形で出土しました。浅鉢の高さは4.5cm、口径11cm×8.7cmでした。口縁部は少し角が丸い波が数箇所立ったような造形になっており、2個1組の円形の貫通孔があり、土器外壁には縄文が施されていました。美しい造形の浅鉢がなぜわざわざ伏せられた状態で埋納されたのでしょうか?
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■小型鉢
小型浅鉢から少し距離を置いて壙底から割れた状態で見つかったのは高さ7cm 、口径9cmで丸底の小型鉢でした。小型鉢のすぐそばに把手付双口土器がありました。小型鉢の口縁部にも波立つような造形があり、円形の貫通孔が2つありました。赤みのある胎土で作られ、報告書によると外面は指で、内面はへラ状工具でなでてあった(※8)そうですから、シンプルでありながらも丁寧に作られたことが伝わってきます。
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■把手付双口土器
横に倒れ、ひび割れた状態で壙底から出土しました。高さ11.6cm、幅12.5cm、口径7.4cmの把手付双口土器は2つのカップの把手の部分がそれぞれ癒合共有しているかのようです。そのデザインは実用的というよりも何か儀式等に使われたのでしょうか? 写真ではなかなかわかりにくいのですが、竹管状工具の刺突と縄文が施され、赤彩されていた(※9)そうです。
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■小型深鉢
把手付双口土器の背後、土壙壁際から横向きで出土したのは高さ8.5cm、口径9cm、丸底の小型深鉢です。沈線文や縄文が施されていました。
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そしていよいよ冒頭の手形・足形付土製品の紹介です。
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■手形付土製品
手形付土製品は長さ12.7cm、幅6.7cm、厚さは1.1cmでした。展示されていたものを見ると乳児の片手が表現されているように見えますが、出土時は手掌・指の部分と手首から下の前腕部分に分かれ、少し距離を置いて見つかりました。
手形部分は、親指側の位置と指の各関節のふくらみが明瞭に観察できることから、右手の甲側から粘土を押し当てられたもの(※10)と考えられています。現代では手形を取ろうとした場合、手掌側に粘土や紙を押し当てて取ることが自然な流れですが、あえて手の甲から粘土を押し当てたのはなぜでしょうか?爪の形もしっかり再現したいためでしょうか?指の爪部分は凹凸がはっきり見えますが、押し付けられた後、竹管状工具で強調された(※11)と考えられています。
展示された手形土製品の下側に置かれていた鏡に、手形の裏面の文様が映し出されていました(写真6)。写真が暗くてわかりづらいと思いますが、手首の表面と同じタイプの文様が一面に施されていました。何か棒の頭のようなものを連続して軽く押し当てた跡のようです。報告書には「半截竹管状工具による刺突」とありました。また手形の反対面と腕部分の両面はこうした装飾のほかに赤彩が施されていました。
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手指・掌側が見つかったのは把手付双口土器の一方のカップの開口部の辺縁でした(写真7)。
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刺突文に覆われているので、展示会場では下になり鏡に映っていた面の方ですね。この報告書の写真を見て心に浮上した光景がありました。それは母乳を授乳する時に乳児が見せる仕草です。生まれたての新生児ではまだはっきりしませんが、少し月齢が進んだ乳児になると母親の乳房を自分の手指・掌で支えるかのように手を添えて、しっかりと母乳を吸啜している様子を見ることができます。赤ちゃんは誰に教えられたわけでもなく、自然に見せるこの仕草。心がほんわかとあたたかくなる光景です。もしかしたら当時の人々はこの把手付双口土器を母親の乳房に見立てたのではないでしょうか。そして把手付双口土器の口縁部に乳児の手形を添えることにより、母親が乳児に授乳する場面をこれらの土器の配置で表したように私には思えてきます。
手首・前腕部分は写真5を見るとわかるように、手指・手掌側からはポツンと少し距離を置いて土壙の壁際から見つかりました。手指・手掌と手首・前腕部分は埋納時にあらかじめ折り割って別々に入れられたと推定(※12)されています。
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■足形付土製品
赤彩された長方形の土製品には両面に造形が見られました。長さ12.5cm、幅6cm、高さ3cmで土壙底よりやや上方から、足形のついた部分を上向きに出土しました。土製品は少し彎曲していますが、平らな土版の上に赤ちゃんの足を押し当てて型取りする時、恐らく赤ちゃんの足を包み込むようにして大人が力を加えたのでしょう。足の指先の丸い圧痕はとてもリアルな感じです。
報告書では土ふまずと推定される部分の位置や親指側の形状からこの土製品は左足(※13)とされ、指の部分の長さの不揃いな部分は押し直し時のずれによるものと考えられています。一方、別の論文では右足(※14)と記されていました。こちらの足形は長さ9.5cmであり、粘土の収縮を考慮すると足の実寸はこれより大きくなる(※15)そうですが、左右どちらの足形であったとしても、乳児の足形だと考えられます。足形の縁の部分には棒を押し当てたようなくぼみで取り囲まれていました。
足形の踵側の内側には1cm程の貫通孔がありましたが、擦痕はないため、ここに紐を通していたわけではなさそうです。
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土製品の足形が押されていた面の裏側には棒の先端を何度も押し当てたような文様や直線、曲線、円がありました。写真8では暗くてわかりにくいと思いますが、まるで現代の靴底面を見ているかのようです。
この足形裏面の文様について報告書を読んで驚きました。この文様は人間の姿を模したものと解釈されていたのです。踵の裏側にあたる円形の文様を上にして考えると、円形部分は頭部、その下の部分の刺突文や横線で構成された部分を胸部とみなし、横の線は肋骨であると見ることができる(※16)ためだそうです。1枚の足形土製品の両面で赤ちゃんの命を表すとは、当時の人々は実に大胆で斬新なアイディアを持つ表現者ですね。
そこで報告書内にあった出土時の写真5とそこから更に鉢が取り除かれた写真9をよく見てみると段々、これらの土製品と5点の土器すべての組み合わせによって母親が乳児をしっかり抱きかかえて母乳を与えている姿を表しているのではないか?という思いが湧いてきました。これはあくまでも私個人の勝手な想像ですが、小型深鉢は母親の頭、把手付双口土器はその母親の乳房、そしてひときわ大きく華やかな造形の鉢は子宮を表し、把手付双口土器の分岐部に密着するようかのように置かれていた小型鉢は母乳を吸啜しようと母の胸に顔をうずめる乳児の頭部、手形付土製品(手指・手掌)は母乳を吸啜する乳児が乳房にそっと寄せた手、伏せられた小型の浅鉢は乳児の臀部、足形付土製品は乳児の足を再現しているのではないかと思ったのです。手首の部分で前腕部が折られていたのは不思議ではありますが、把手付双口土器の口縁部に手形を寄せる時、土壙底からの高さがちょうど良かったのかもしれません。
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土壙の実寸サイズと写真3の土壙全体の大きさから見ると、こちらは成人の屈葬のためのお墓ではなく、小児を埋葬したお墓であることを強く感じました。土壙の大きさ及び出土した人骨の年齢が明らかになっている北海道の高砂貝塚の例を比較参照してみると、第一次・二次調査で見つかった28の墳墓のうち、KP-397の長径78cmと同等の墳墓は2点あり、G10号墳墓は長径80cmで4歳(※17),
G12号墳墓は長径72cmで8歳(※18)のこどもが埋葬されていました。ですからKP-397に埋葬されていた人物も学童期以下の年齢であったと考えることは自然だと思います。ここから更に年齢層を絞っていく上で、KP-397に埋納されていた鉢は底面が壊されていたという事実に着目したいと思います。
以前、岩手県 柿の木遺跡の伏甕(※19)を取り上げましたが、底面に穴が開けられた土器がこの他にも国内各地及び海外の遺跡の土壙等から見つかっており、これらは胎児や乳児を埋葬する折に「甕棺」として用いられたものと解釈されています。底面の穴の理由としては亡くなった胎児や乳児の再生を願う説がよく添えられます。KP-397に埋納されていた鉢も亡くなった赤ちゃんの棺として用いられたのではないでしょうか?もちろん亡骸全身を納めるためにはある程度の高さの土器が必要です。型取りされた手形・足形のサイズから考えるとこの赤ちゃんの月齢は生後半年前後でしょうか。KP-397出土の鉢は高さ17cm、口径25cmですから、いくら赤ちゃんの胸に膝がつく位に強く折り曲げた屈葬にしても、赤ちゃんの全身が鉢の中に納まるはずはありません。しかし、この鉢の中で膝を曲げた状態で座らせ、頭部と上半身は鉢の外から出ていたとすれば、十分あり得るのではないでしょうか?それはまるで母親の子宮内で骨盤位をとっている胎児のような姿勢です。医学が発達していない当時、人々が母体内の胎児の姿勢をどう理解していたのか知るすべはないものの、再び自分たちの元に生まれ来てほしいと願う親心が、夭逝した赤ちゃんを子宮に見立てた美しい鉢の中に座らせて葬ったとも考えられます。
ここで注目したいのはKP-397出土の鉢が作成されたプロセスです。初めから穴をあけた底を形作って焼成したのではなく、穴のない底の鉢を完成後に壊し、穴をあけたという事実です。こちら(※20)で取り上げたように、高砂貝塚のG4号墳墓では成人女性の足骨の端部に「壊れた」ではなく「壊された」と考えられる土器片がまとめて13点置かれていたり(※21)、同貝塚のG27号墳墓では1つの土器を半分に割ったものを3-4歳のこどもの足骨の両側に供えられていた(※22)例が見つかっています。そこで私個人の考えとして自由に想像を膨らませてみました。例えば美しい完成品をあえて「壊す」「割る」「欠損させる」そうした行為の結果、それらを「癒す」「守る」といった働きの力が祈りや儀式によって天から呼び寄せられるなら、破損されたものが修復されるだけでなく、そのそばにあるものさえも二次的にその力にあやかることができる、というように当時考えられていたのだろうかと。
KP-397の出土遺物は「赤みの胎土」「赤彩」「赤く変色」という具合に、まさに生命の象徴とも言える血液の赤色と強く結びついていることも注目に値します。赤ちゃんの生きた証である手形・足形付土製品、命を繋ぐ上で欠かすことのできなかった授乳のひと時を再現した土器や土製品、そしてまさにその母親の子宮が想定される場所に亡くなった赤ちゃんを葬り、赤ちゃんを危険から守れるようその上に石斧を横たえていたこと。かつての幸せな生を表現した上にある現実の死、これらのすべてがあまりにも早過ぎる我が子の死を悼み、赤ちゃんを優しくしっかりと包み込み守りながらも、その命の再生・再会を望む親心が溢れていると思いました。
恵庭市郷土資料館には同市のカリンバ遺跡の合葬墓の出土時の様子が再現されているコーナーがありました。柏木川4遺跡のKP-397の出土遺物もぜひすべて揃った状態で、出土時の遺物の位置関係がわかるレプリカが展示されるといいなあって思います。
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<引用文献・資料, ウェブサイト> |
※1 |
恵庭市公式HP 恵庭の文化財 柏木川4遺跡土壙墓・旧河川道出土品 |
※2 |
北海道埋蔵文化財センター 編(2007)『柏木川4遺跡 3
((財)北海道埋蔵文化財センター調査報告書 ; 第249集)』北海道埋蔵文化財センター, p.58 |
※3 |
前掲書2, p.56 |
※4 |
前掲書2, p.58 |
※5 |
谷島 由貴, 吉田 裕吏洋(2007)「恵庭市
柏木川4遺跡出土の足形付・手形付土製品について」考古学ジャーナル, (554)
ニュー・サイエンス社, p.38 |
※6 |
前掲書2, p.56 |
※7 |
前掲書5, p.38 |
※8 |
前掲書2, p.57 |
※9 |
前掲書5, p.38 |
※10 |
前掲書2, p.57 |
※11 |
前掲書5, p.38 |
※12 |
前掲書5, p.38 |
※13 |
前掲書2, p.58 |
※14 |
前掲書5, p.38 |
※15 |
前掲書5, p.38 |
※16 |
前掲書2, p.58 |
※17 |
三橋公平ほか(1987)『高砂貝塚 噴火湾沿岸貝塚遺跡調査報告2三橋公平教授退職記念号
』札幌医科大学解剖学第二講座, p.17及びp.116 |
※18 |
前掲書17, p.17及びp.118 |
※19 |
Lana-Peaceエッセイ 伏甕・埋設土器(縄文時代, 岩手・盛岡市遺跡学びの館蔵) |
※20 |
Lana-Peaceエッセイ 出産の悲しみを癒す勾玉(縄文時代晩期, 北海道虻田郡 高砂貝塚) |
※21 |
前掲書17, p.19 |
※22 |
前掲書17, p.45 |
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参考: |
恵庭市公式HP 恵庭の文化財 柏木川4遺跡土壙墓・旧河川道出土品 |
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谷島 由貴, 吉田 裕吏洋(2007)「恵庭市
柏木川4遺跡出土の足形付・手形付土製品について」考古学ジャーナル, (554)
ニュー・サイエンス社, pp.36〜39 |
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<写真> |
写真1 |
手形・足形付土製品展示コーナー |
写真2 |
手形・足形付土製品 |
写真3 |
KP-397土壙全体像 |
写真4 |
KP-397出土遺物 |
写真5 |
KP-397出土時(石斧と覆土を取り除いた後) |
写真6 |
手形付土製品 |
写真7 |
出土時の手形付土製品(手指・手掌部分) |
写真8 |
足形付土製品 |
写真9 |
KP-397出土時(石斧と鉢と覆土を取り除いた後) |
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写真1,
2, 6, 8 2019/6
恵庭市郷土資料館にて当方撮影 |
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写真3 2019/6
恵庭市郷土資料館にて解説パネルを当方撮影 |
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写真4 前掲書2, 口絵4より引用,
遺物名は当方書き込み |
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写真5,
9 前掲書2, 口絵3より引用, 遺物名は当方書き込み |
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写真7 前掲書2, 口絵3より引用 |
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2019/11/18 長原恵子 |
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