■御子様御廟の始まり
御子様御廟は伊達家霊廟のある経ヶ峯に仙台藩主五代吉村によって開かれ、十三代慶邦の時代まで藩主の早世した子らの墓域として営まれました。「公子公女御廟」とも呼ばれています。経ヶ峯の西北に位置する御子様御廟は仙台城二之丸から幼い者の廟を見守ることができるという理由でこの場所が選ばれたと考えられています(※1)。二之丸とは二代忠宗によって造営され、藩政実務を行う建物や藩主の居所が置かれた場所(※2)で、現在は東北大学川内キャンパスの一部になっています。ページ最初に出てきた図1を見ると、その位置関係がわかります。写真6は仙台城本丸跡から東方向を見た風景ですが、写真上方は経ヶ峯でその下に広瀬川が流れ、手前に自動車教習所施設が見えます。経ヶ峯の横は切り立った地層がむき出しになった崖になっており、広瀬川はまるで経ヶ峯を取り囲むお濠のようです。
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■五代藩主吉村
なぜ五代吉村が早世した藩主の子らの廟を開こうと決めたのか?そのいきさつが記された文献を見つけることはできなかったので、その人物像から考えてみたいと思います。彼は延宝8(1680)年6月、黒川郡宮床館主伊達宗房の長子として生まれ、元禄8(1695)年、四代藩主綱村の養子になり、名も村房から吉村へと改め、元禄16(1703)五代藩主となりました。当時仙台藩は約43万両もの借金を抱える財政難で、宝永4(1707)年と翌年には仙台全城下がほとんど焼土と化すほどの大火に見舞われました(※3)。財政緊縮だけでは立ち行かず、改革推進は困難を極めましたが、やがて好転の機に恵まれます。幕府から許可を得て石巻で寛永通宝の鋳銭事業を始め、江戸で仙台藩の米を売る買米仕法は享保17(1733)年、西日本の飢饉で江戸で米価が高騰したことも追い風となり、約50万両もの利益を上げて仙台藩は財政回復へと向かったのです(※4)。藩の財政再建・救済に大きな実績を残した吉村は「中興の英主」(※5)と称されるようになりました。
吉村は和歌や漢詩、絵にも長け、学問好きでもあり、元文元 (1736) 年に仙台城下に開いた学問所は後に仙台藩学問所「養賢堂」へ発展しました。
彼が大きな心の度量の人物であったことを知り得るエピソードが伝わっています。江戸の藩邸から江戸城へ登城する前、吉村が食事をしていた所、登場時間の遅れに慌てた近臣は吉村に差し出した茶で彼の礼服を汚してしまったのです。とんでもないことをしてしまった、と処分も覚悟した近臣でしたが、吉村は叱責することもなく平気な様子で「総て物事を急ぐ時には、反つて心静かに遣るがよい、是は全く平生の修養による事である。狼狽して事をやると失策する……」と諭し、静かに服を着替えて登城したと伝わっています(※6)。八代将軍徳川吉宗からも「近年の大名のなかで古雅を失っていない唯一の人物だ」と称賛されるほどで(※7)、人望の厚い人格者であったことがうかがえます。夭逝した藩主の子らの命を末代まで弔いたいと願う慈しみの心を持ち合わせ、200年にも渡る御子様御廟の礎を築いた行動力は、吉村の人となりを知ると「なるほど、やはり」と頷けます。
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吉村が寄進し、吉村自身の揮毫による扁額の鳥居が仙台市内にありました。御子様御廟よりも北西に3km弱にある大崎八幡宮です(写真7,8)。こちらは慶長9(1604)年に伊達政宗により社殿造営が開始されました。安土桃山時代の唯一の遺構として国宝建造物に指定されています。
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造営開始から百年ほど後の享保3年(1718)年、吉村が三之鳥居(写真9)を寄進しました。中央の「八幡宮」の三文字、よく見ると八の字は鳩が向かい合わせになっており、その他の一画、一画もまるで何かの意味を表しているかのような書体です。現地解説板によると扁額周囲の装飾は伊達家家紋の「日の丸」「竹に雀」「丸の内に三ツ引両」「九曜」「蟹牡丹」「竜胆車」だそうです(写真10)。
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■いよいよ御子様御廟へ
杉木立の間を抜けると、少し開けた場所が見えてきました。御子様御廟の入口です(写真11)。左手に御廟の案内や墓石配置図、被葬者一覧等が示されていました(写真12)。
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下の写真13は御子様御廟の入口に設置されていた墓石配置図の写真に、こちらでこどもの墓と一門関係者らの墓を色別の丸(黄色・水色)で重ね合わせて示したものです。
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墓域は広瀬川を背にL字型を成し、南北に長く二列連なっているのは藩主の子22名の墓です。御廟入口周辺には一門関係の側室や尼等6名の墓がありました。こちらには経ヶ峯内の瑞鳳殿、感仙殿、善応殿のような見事な建造物は見当たりませんが、こどもだから簡素なものにしたわけではありません。四代綱村の頃から藩主の墓も豪華な個別霊屋の造営は廃止され、大年寺の墓域に葬られるようになりました。御子様御廟内では簡単な覆屋で囲った墓所もあった(※8)そうですが、これらの葺き放しの堂は経ヶ峯内の妙雲界廟と同様に廃仏毀釈の流れを受け、明治10(1877)年に除去されたのでした(※9)。
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■葬られたこどもたち
御子様御廟に葬られた藩主の子22名の内訳は四代綱村の子が1名、五代吉村の子が5名、六代宗村の子が6名、七代重村の子が4名、十一代斉義の子が2名、十三代慶邦の子が4名でした。御子様御廟の被葬者、続柄、年齢、命日、献納された石灯籠数を表1に示します。 |
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位置 |
氏名 |
伊達家との関係 |
年齢 |
死亡年月日 |
献灯数 |
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1 |
総三郎 |
七代重村長男 |
7歳 |
明和8(1771)年6月11日 |
8 |
2 |
珋姫 |
六代宗村十二女 |
8歳 |
宝暦12(1762)年7月7日 |
2 |
3 |
房姫 |
六代宗村十二女 |
7歳 |
宝暦 9(1759)年4月14日 |
2 |
4 |
藤七郎 |
六代宗村六男 |
1歳 |
宝暦3(1753)年10月27日 |
4 |
5 |
村風 |
五代吉村三男 |
21歳 |
享保20(1735)年5月20日 |
8 |
6 |
才姫 |
六代宗村十女 |
2歳 |
宝暦 3(1753)年9月21日 |
3 |
7 |
武三郎 |
五代吉村二男 |
3歳 |
正徳3(1713)年5月18日 |
2 |
8 |
従姫 |
六代宗村七女 |
3歳 |
宝暦3(1753)年8月15日 |
4 |
9 |
村匡 |
五代吉村長男 |
14歳 |
享保7(1722)年12月26日 |
5 |
10 |
某 |
五代吉村十五男 |
1歳
(注1) |
元文4(1739)年6月8日 |
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11 |
久米之丞 |
六代宗村長男 |
8歳 |
延享2(1745)年7月22日 |
6 |
12 |
寔丸 |
七代重村四男 |
1歳
(注2) |
文化(1815)12年4月12日 |
2 |
13 |
孝姫 |
吉村養女・
伊達村胤室 |
57歳 |
明和6(1769)年5月11日 |
6 |
14 |
祺丸 |
十一代斉義長男 |
3歳 |
文政9(1826)年5月14日 |
4 |
15 |
依姫 |
十一代斉義二女 |
3歳 |
文政12(1829)年11月19日 |
4 |
16 |
斐姫 |
十三代慶邦長男 |
2歳 |
弘化元(1844)年5月2日 |
4 |
17 |
阿今 |
伊達村胤室 |
66歳 |
明和2(1765)年5月5日 |
2 |
18 |
婉姫 |
十三代慶邦二女 |
2歳 |
弘化3(1846)年5月6日 |
4 |
19 |
不明 |
十三代慶邦三女 |
即日夭 |
文久元(1861)年12月8日
即日夭・地蔵石仏(損傷) |
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20 |
寿姫 |
七代重村九女 |
3歳 |
寛政元(1789)年正月24日 |
4 |
21 |
仙三郎 |
七代重村三男 |
10歳 |
天明4(1784)年8月12日 |
6 |
22 |
禎丸 |
十三代慶邦長男 |
1歳 |
弘化4(1847)年正月19日 |
4 |
23 |
砂沢氏安子 |
十一代斉義側室 |
66歳 |
明治2(1869)年12月晦日 |
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24 |
寂照院
本庵慧心禅尼 |
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不明 |
天保4(1833)年4月21日 |
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25 |
岸氏盛子
真明夫人老女 |
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73歳 |
安政6(1859)年2月23日 |
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26 |
伯姫 |
四代綱村二女 |
3歳 |
元禄2(1689)年3月12日 |
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27 |
竜華院分流智
禅尼(無縫塔) |
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不明 |
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28 |
真誉妙珠法尼 |
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不明 |
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表1 御子様御廟 被葬者・献灯数 |
こちらに書かれている年齢は仙台市教育委員会の報告書『仙台市文化財調査報告書第22集』(※10)を基に転載しました。明治維新期に伊達家文書の整理に深く関わった作並清亮による『伊達略系』には、上記のうち十三代慶邦の三女を除いた全員の情報、死亡年月日と戒名、生母の情報等が記されていましたが、中には生年月日が明らかにされているものもありました。五代吉村の十五男(※注1)と七代重村四男の例(※注2)です。この2例を見ると、現代風に数えると日齢1あるいは生後1カ月前後と称される子の年齢が1歳と表記されていることから、報告書内の年齢は数え年の記載であると考えられます。つまり実年齢は一覧に出ている年齢よりも若いわけです。なすすべもなく息を引き取る子を見送った親の悲哀がこの地には詰まっています。
御子様御廟に葬られた子は四代綱村の二女伯姫を除き、皆側室の子でした(注3)。当時、参勤交代の制度により藩主の住まいは国許と江戸の藩邸との間を1年ごとに替えていましたが、藩主が国許に帰っても正室と子らは江戸での居住が強いられたため、正室の子が夭逝した場合は江戸で弔い、葬られたと考えられます。
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■墓石の配置
写真13に対して没年順に番号をこちらで振ってみたものが写真14です。白字の番号は墓石の配置番号で、黄色の番号は没年の古い順です。広瀬川方面の西側から一列先に葬られ、その後東側に向かって御廟が拡張されたと考えられます。ただし古い順から隣り合った場所に続けて埋葬されたわけではないようです。
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御子様御廟の入口付近にあるのは後年の藩主側室や一門関係の尼等の墓です。こちらは石灯籠もなく、簡素な墓石です。御子様御廟は落飾した側室や待女がお参りにこられていたことから、尼ヶ崎と呼ばれるようになった(※11)とも伝わっています。
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■こどもたちを見守る数多くの献灯 入口から先に進むと南北に太い参道があり、その両脇にこどもたちの墓石、石灯籠が立ち並びます。その数の多さに圧倒されました。石灯籠の波間に墓石が見え隠れするといった感じです。
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御子様御廟には84基の石灯籠が献納されていました
(注4)。経ヶ峯内の石灯籠は瑞鳳殿9基、感仙殿18基、善応殿24基、妙雲界廟25基で各廟合わせて76基(※12)ですから、御子様御廟の84基という数は圧巻です。
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写真18の中央の笠塔婆は先程登場した七代重村四男寔丸の墓です。文化12(1815)年4月12日に1歳(実年齢1カ月前後)で亡くなり、4カ月後の文化12(1815)年7月23日、墓の前方左右に一双の石燈籠が献灯されました(※13)。寔丸の周囲に葬られた六代宗村長男久米之丞(西側)や五代吉村養女の孝姫(東側)に献灯された石灯籠の一部も写っているため、一層墓の周囲は賑やかな感じになっています。新しい石灯籠へ寄せられた思いは、先に葬られた子にも追慕として重ねられているかのようです。
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■六代宗村 父の試練
御子様御廟に葬られている子の父親は、妙雲界に眠る十一代藩主斉義を除き、全員が大年寺(仙台市太白区)の墓域である無尽燈及び宝華林に葬られています(※14)。斉義は吉村よりも120年ほど時代が新しく、藩主として采配を振るったのは9年弱ですが、瑞鳳殿の本殿背後の急斜面崩壊を憂い、広瀬川河岸まで石塁を築き、鉄線で押える工事を成し遂げた人物です。死後も瑞鳳殿を守り続けようと遺命で経ヶ峯に葬られたと考えられています(※15)。
五代吉村以降、夭逝した藩主の子全員がここに葬られたというわけではありませんが、この御子様御廟の中だけで考えると一番多くの子が葬られていた父親は六代藩主宗村で、とりわけ宝暦3(1753)年は宗村の心に深く爪を立てるものでした。写真9に対して宗村の子の墓石を示したものが写真19です。この年の8月から10月にかけて3人の子が相次いで亡くなりました。8月15日に七女従姫(母は側室坂氏・墓石位置8)、9月21日に十女才姫(母は側室石川氏・墓石位置6)、そして10月27日に六男藤七郎(母は側室坂氏・墓石位置4)がこの世を去ったのです(※16)。死因はわかりませんが2カ月半の間に立て続けに幼い子が3人も亡くなったことから、当時何か重篤な感染症が流行していたのかもしれません。
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■親子の墓
『伊達略系』を頼りにこどもたちの母について調べてみると、一組の母子が葬られていることがわかりました(※17)。十一代斉義の長男祺丸と斉義側室
砂沢氏安子です。
砂沢氏安子の墓は御子様御廟の入口の近く、土塁のそばにひっそりとありました。そこから西側に離れて二列に連なる墓石の一角にあったのが祺丸の墓です。祺丸が亡くなった43年後、明治2(1869)年12月晦日に母安子は亡くなり、この地に葬られました。現世の命を終えた母がようやく子のそばに戻ってきたということです。
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祺丸の墓の東隣りには十三代慶邦長男禎丸の墓があり、それぞれ4基ずつ石灯籠が献納されていました。
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■養家と結んだ深いご縁
御子様御廟の藩主の子は皆藩主と側室(伯姫のみ母は正室)との間の実子ですが、唯一五代吉村の娘孝姫は養子でした。
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孝姫は吉村の正室(久我通名の娘、長松院)の妹で、吉村の養女となり伊達村胤(むらたね)に正室として嫁ぎました。村胤は吉村の実弟である伊達村興(むらおき)の子です。村胤と孝姫との間に子が生まれる前に村胤は先立たったことから、孝姫は落飾し心鏡院となりました。報告書にあった孝姫の墓石の碑文(※18)を読んでみると、どうやら孝姫は御子様御廟の近くにあるという理由から瑞鳳寺での葬儀を願い、藩主の子らの墓のそばに葬られることを望んだようです。写真23は孝姫が亡くなった明和6(1769)年5月11日までに御子様御廟に葬られていた子らの墓石の配置状況を表したものです(没年不明の尼の墓2基を除いて考える)。孝姫は当時、敷地の中で最も入口に近い位置に葬られたことがわかります。御子様御廟に出入りする者をまるで見張っているかのようです。養父母への恩を深く感じていた孝姫は実子との縁がなかった分、夭逝した歴代藩主の子らを自らの子の如く見守る役割を望んだのかもしれません。なお17番の位置に葬られていたのは伊達村胤室
阿今(円照院殿心月貞性尼大姉)です。孝姫の逝去4年前に亡くなっていました。
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仙台市経ヶ峯の御子様御廟、これからどれほど長い時を経ようとも、夭逝した藩主の子らを悼む人々の気持ちを伝え続けていくことでしょう。
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<引用文献・資料, ウェブサイト> |
※1 |
三原良吉(1980)「経ヶ峯と伊達家廟の歴史」『仙台市文化財調査報告書第22集 経ヶ峯』仙台市教育委員会,
p.11 |
※2 |
仙台市HP(仙台城のみどころ-大橋・二の丸・三の丸・御裏林) |
※3 |
仙台市史図録編纂委員会編(1975)『目で見る仙台の歴史』宝文堂出版販売, p.72 |
※4 |
山本博文(2014)『江戸三〇〇藩物語藩史 北海道・東北篇』洋泉社,
pp. 126-127 |
※5 |
前掲書4, p. 125 |
※6 |
高島平三郎編(1915)「伊達吉村除かに侍臣に諭す」『精神修養逸話の泉 第3編』洛陽堂, p.168 |
※7 |
前掲書4, 134p |
※8 |
佐藤 巧(1980)「経ヶ峯の御霊屋建築」『仙台市文化財調査報告書第22集 経ヶ峯』仙台市教育委員会,
p.127 |
※9 |
前掲書1, p. 12 |
※10 |
前掲書1, pp. 11-12 |
※11 |
前掲書1, p. 12 |
※12 |
佐藤
明(1980)「経ヶ峯霊廟の遺構・遺物一金工・石工を中心として―」仙台市文化財調査報告書第22集 経ヶ峯』仙台市教育委員会, p.221 |
※13 |
前掲書12, p.220 |
※14 |
大年禅寺 歴代藩主と住職 |
※15 |
前掲書1, p. 11 |
※16 |
作並清亮編(1905)『仙台文庫叢書 ; 第1集 伊達略系』作並清亮, p. 19(22コマ) |
※17 |
前掲書16, p.
22(デジタルコレクション25コマ) |
※18 |
前掲書12, p. 216 |
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<参考文献> |
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<注> |
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<表> |
表1 |
御子様御廟 被葬者・献灯数 |
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表1 前掲書1, p.12及び前掲書12, p.212の情報を元に当方作表 |
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<図> |
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<写真> |
写真1 |
瑞鳳殿 |
写真2 |
感仙殿 |
写真3 |
善応殿 |
写真4 |
御子様御廟へ続く遊歩道入口 |
写真5 |
御子様御廟へ続く杉木立 |
写真6 |
仙台城本丸跡から見た経ヶ峯 |
写真7 |
大崎八幡宮 本殿 |
写真8 |
大崎八幡宮 本殿 |
写真9 |
大崎八幡宮 三之鳥居 |
写真10 |
大崎八幡宮 三之鳥居扁額 |
写真11 |
御子様御廟入口 |
写真12 |
御子様御廟案内看板 |
写真13 |
墓石配置図 |
写真14 |
墓石配置図・没年順 |
写真15 |
御子様御廟入口 尼の墓(寂照院本庵慧心禅尼・長享院華林紹栄禅尼) |
写真16 |
御子様御廟 |
写真17 |
御子様御廟 |
写真18 |
七代重村四男寔丸の墓 |
写真19 |
墓石配置図・六代宗村の子 |
写真20 |
親子の墓(十一代斉義の長男祺丸と斉義側室 砂沢氏安子) |
写真21 |
十一代斉義の長男祺丸・十三代慶邦長男禎丸の墓 |
写真22 |
五代吉村養女孝姫の墓 |
写真23 |
墓石配置図・孝姫の墓 |
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写真1-6,
11-23 2019/7
宮城県仙台市 経ヶ峯にて当方撮影 |
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写真7-10 2019/7
宮城県仙台市 大崎八幡宮にて当方撮影 |
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写真14-15 18-23 当方加筆加工 |
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初出 2020/2/15, 加筆修正 2020/2/22 長原恵子 |
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