彼にとって、病気を直すことなど問題ではなかった。父はそんなことには無関心だったと私は思っている。大切なのは描くということだった。
ここでまた渡り鳥の例を持ち出すが、ある地方の人びとは、これらの烏たちの運命によってどうしようもなく定められた通路に、大きな網をはって待ち構えているのだ。
病気は、ルノワールの辿る道に張られた罠だった。彼にとって、そこを通るか通らないか選択する余地はなかった。なんとか網から逃れて、手足に傷を負いながらなおも道を辿り続けるか、眼を閉じて死んでゆくかどちらかだった。
もちろん、ルノワールは、どんな問題でも、知性的な色に染ることをひどく厭がっていたから、このことももっと卑俗な言いあらわしかたをしていた。
父は母に、これからは一家の生活を充分に支えられなくなるかも知れぬと言っていた。父の制作は尨大なものだったが、ほとんどすべて、描くとすぐに売ってしまった。
おかげで家の生活にはなんの心配もなかったが、うんと余りが出るというほどではなかった。
引用文献:
ジャン・ルノワール著, 粟津則雄訳(1964)『わが父ルノワール』みすず書房, p.340 |