ルノワール 3 何のためのリハビリか
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「ルノワール 1 不器用なほど効き目がある」と「ルノワール 2 プレッシャーが力に変わる時」で書きましたが、印象派の画家ピエール=オーギュスト・ルノワール氏は1897年から1898年にかけて、右腕が不自由になっていきました。病気による変化は手だけでなく、眼にも及んでいったのです。それは絵を描く上で、本当に大変なことだったろうと思います。 |
病状の進みかたは不規則だった。
身体の様子がひどく変ったのは、クロードが生れたあとの1902年頃だったと思う。左眼の神経の部分的な萎縮がまえよりはっきり目につくようになった。
これは、それ以前長年にわたって風景画を描いているうちに積りつもった冷えのせいだった。この部分的な麻痺は、リューマチのためにいっそう昂進した。
数ヵ月のうちに、ルノワールの表情はじっと動かぬ感じになり、始めて会う人びとはみなひどくおどろいた。
これは打明けておかねばならないが、われわれはまえとはちがうこの父の姿にすぐに馴れてしまった。
発作はますますひどくなったが、発作のとき以外は、父が病気だということなどすっかり忘れていた。
引用文献:
ジャン・ルノワール著, 粟津則雄訳(1964)『わが父ルノワール』みすず書房, p.340
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まだ未成年の長男を筆頭に、小学生の次男と乳飲み子の三男の家族を抱え、本当に大きなプレッシャーを感じていたことでしょう。それは次のように記されています。 |
年とともに父の顔は憔悴をまし、手はひどく縮んで反りかえってきた。
私は父が、三つの球をじつにうまくまるで軽業のように操るのを見たものだが、或る朝とうとうこの球遊びも諦めてしまった。
もはや指で球をにぎることも出来なくなってしまったのだ。
父は「だめだ!私も老いぼれたものだ」と見かけだけはいかにも元気そうに叫びながら、焦立たしげに球を遠くへ投げとばした。
引用文献:
前掲書, pp.340-341 |
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三つの球のリハビリは諦めたものの、それは絵を描くことへの諦めではありませんでした。拳玉や薪を使ってリハビリすることにし、活発に歩けなくなった足のために、杖の端に工夫をしました。 |
小さな薪をかわりにして、例の軽業をやろうと思いついた。それで、煖炉用の薪を持って来てくれるオーヴェルニュ人に、そのなかの一本を、ちょうど直径四セン長さ約二十センチになるように切ってくれと頼んだ。出来あがるとそれを自分でていねいに磨き、どこからどこまですべすべになるまで紙やすりをかけた。
それを、度々手を代えるように気をつけながら、空中に投げあげでぐるぐるまわし、また受けとめるわけだ。
「描くには手を使うからね!」と父は口癖のように言っていた。これも、手を守るための闘いだったのだ。
歩きかたも鈍く不活溌になってきた。父が杖を使おうと決心したとき私はまだほんの子供だった。杖にすがる度合はだんだん強くなっていったが、時々すべるものだから、杖の端にゴム輪をはめることにした。「まるで傷痍軍人だよ。」
引用文献:前掲書, p.341 |
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自分が大切にしていること、やりたいことをやり続けていくためには、何をしなくてはいけないか…その優先順位をしっかりと、わかっていたからこそ、ルノワールは「描くには手を使うからね!」と口癖のように言っていたのでしょう。
それはリハビリが大変だなあと苦しく思った時に、自分を励まそうと自分に言い聞かせていた言葉のようにも聞こえてきます。 |
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リハビリが進まない時、お子さんが苛立ちや焦りが強くなるのは自然なこと。そんな時は何のためのリハビリか、お子さんと一緒に原点に戻ってみることが、支えになってくれるように思います。 |
2014/3/27 長原恵子 |
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