古作貝塚 貝輪・貝輪入り蓋付土器
(東京国立博物館・東京大学総合研究博物館 蔵) |
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品名: |
貝輪 |
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場所・時代:
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古作貝塚,
千葉県船橋市
縄文時代(後期)・前2000〜前1000年 |
所蔵先: |
東京国立博物館(東京)列品番号
J-23291, J-23292, J-23293, J-23337, J-23338
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出展先・年: |
東京国立博物館(東京)「縄文時代の装身具と祈りの道具」平成館 考古展示室(2017/11 当方撮影) |
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貝輪入り蓋付土器 |
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場所・時代:
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古作貝塚,
千葉県船橋市
縄文時代(後期) |
所蔵先: |
東京大学総合研究博物館, A4117 |
出展先・年: |
東京大学総合研究博物館 本郷本館 常設展示(2019/7 当方撮影) |
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昭和58(1983)年に千葉県の古作貝塚から出土した女性とこどもの人骨のお話をこちらでご紹介しましたが、今日は昭和の初めに古作貝塚から出土した貝輪のことをご紹介したいと思います。
明治時代には既にその存在が知られていた古作貝塚でしたが、この地に競馬場が作られることとなりました。現在の中山競馬場です。そのためついに昭和3(1928)年、古作貝塚は破壊の憂き目にあうこととなりました。
当時の『人類学雑誌』に寄稿された八幡一郎先生の論文「最近発見された貝輪入蓋附土器 下総古作貝塚遺物雑感の一」に、松村瞭先生がはしがきを寄せられていますが「東洋一の大競馬場となつてしまつて、最早貝塚の面影は殆んど見られない程にも変形してしまつた。(※1)」と書かれていることからも、相当大規模な工事が行われたかがうかがえます。その際、この蓋付土器が出土したのでした。
知らせを受けて駆けつけた松村先生と八幡先生は、発見状況と経緯を確認しました。そしてこの土器と貝輪は保管していた工事者の厚意により、東京大学人類学教室に寄贈されることになりました。土器周囲に付着していた土も洗い落とされない発掘当時のまま、土器を壊したり、中身を取り出されることもなく、研究者の手元に渡ったのです。松村先生は「特筆して感謝する次第である」と記されていましたが、まさに今こうしてこの土器と貝輪について知ることができるのは、工事関係者と研究者のおかげだと言えます。 |
千葉県船橋市の飛ノ台史跡公園博物館の展示解説パネルにその土器の写真がありましたので右に出しておきます(写真1)。 |
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千葉でこのパネルを見た2年後、小作貝塚関連の遺物は東京大学総合研究博物館にあると知り、合わせて博物館は耐震工事のためにしばらく閉鎖されてしまうと聞き、2019年夏に急いで訪れてみました。現地には土器2点のうち1点と貝輪が展示されていました。千葉のパネルで見た土器の向かって左側、報告書には第2号と記された方の土器が冒頭に追加掲載した写真で、その中に入っていた貝輪は下に出しました(写真2)。土器は素朴な雰囲気ですが、持ち手の部分も丁寧に作られています。角度を変えて見てみると、口縁部には一部縄のようなものを押し当てて付けたような文様がありました(写真3)。
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八幡先生の論文の中には古作貝塚出土遺物の概要が細かく記されていましたのでご紹介しましょう(※2)。パネルの向かって右側の土器、蓋がのせられたままの土器は蓋付の状態で高さが22cmあったそうです。この中には土器の底から貝輪が水平に重なり合うように入っていました。ツタノハガイ製の貝輪9枚、ベンケイガイ製の貝輪20枚、サルボウガイ製の貝輪3枚、合計32枚もの貝輪が入っていたのです。
そして写真向かって左側、東京大学総合研究博物館で見た土器は蓋付の状態で高さは18cm、やはり出土時に貝輪が水平に重ねられていたのでした。内訳はベンケイガイ製の貝輪 1枚、サルボウガイ製の貝輪 18枚、合計19枚でした。
ページ冒頭の貝輪をそれぞれ拡大して撮影したものがこちらになります。
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写真4-a 古作貝塚出土の貝輪 |
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写真4-b 古作貝塚出土の貝輪 |
貝輪の穴はとてもきれいです。石器を使って硬い貝にきれいな円形の穴を開けるのは、至難の業だと思いますが、実になめらかな穴です。当時の人々の技術は本当に素晴らしいと思います。私が作ったらうっかり亀裂が入って貝が割れたり、いびつな形になってしまいがちだと思います。 |
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写真4-c 古作貝塚出土の貝輪 |
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八幡先生は「貝輪を貴重品として土器に収めたと云ふ解釈は古作の場合にも適用出来るかと思ふ。」「貝輪を何等かの必要上貯蔵する風習があつたものとも思はれるのである。」(※3)と記されていました。
さて古作貝塚では、人骨と共に見つかった貝輪もあります。飛ノ台史跡公園博物館の展示解説パネルにあった写真を当方が撮影したものが、下の写真です。黄色の矢印で示した部分が貝輪です。いつ出土されたものか、年代が併記されていなかったので詳細不明な点が残念です。 |
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写真5-a 古作貝塚出土の人骨と貝輪
(パネル写真に当方が矢印を追加挿入) |
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写真5-b 右手首あたりの骨と貝輪 |
ちょうど人骨の右手首のあたりに1つ、そして足首のあたりと想像される位置にもう1つ貝輪が見えます。貝輪を装着したまま、葬られたのでしょうか。 |
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展示解説パネルには
「貝輪は単なるアクセサリーではなく、悪霊から身を守るためにつけたのかもしれません。」と記されていました。
貝輪を伴った人骨の中でも、こどもの人骨が山口県下関市の土井ヶ浜遺跡で見つかっています。山田康弘先生の著書『老人と子供の考古学』の中にそのお話が登場します。そちらによると土井ケ浜遺跡の3号幼児人骨と呼ばれるこどもは、マツバガイ製の貝輪を9個伴っていました。貝輪はシンプルに打ち欠いただけで内側面の加工が粗いことから、山田先生はこの貝輪はこどもが生前から身につけていたものではなく、亡くなってから埋葬されるまでの間に装着されたもの、すなわち死装束としての意味があったという考えを示されています(※4)。
アクセサリーやお守りの意味で貝輪をずっと身につけていたのか、あるいはそれが死出の旅を安らかにすることを願って添えられ、共に埋葬されたものなのかはわかりません。しかしもし後者であれば、そこには当時の人々が感じていた「死後の生」といった世界観が浮かび上がってきます。そして死者へ向けられたあたたかい眼差しがだんだんと感じられます。
貝輪を身につけて埋葬されたこどもの例は、島根県八束郡の古浦遺跡からも数体発見されています。古代の貝輪の持つ意味について、これからもう少し探ってみようと思いますが、貝輪は人々にとって何らかの力を発揮するものだったからこそ、大切にされ、最期に身につけていたのだろうと思います。貝輪一つをとって見ても、そこにはいろいろな人々の思いがたくさんつまったものであることを、忘れてはいけないと思います。
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参考文献:
※八幡一郎(1928)「最近発見された貝輪入蓋附土器 下総古作貝塚遺物雑感の一」人類学雜誌, 43(8),pp.357-366
※東京大学総合研究博物館 編(2016)『UMUTオープンラボ 太陽系から人類へ:
東京大学総合研究博物館常設展示図録(改題版)』東京大学総合研究博物館, p.28
※古浦遺跡調査研究会、鹿島町教育委員会(2005)『古浦遺跡』
引用文献:
※1 八幡一郎(1928)「最近発見された貝輪入蓋附土器 下総古作貝塚遺物雑感の一」人類学雜誌, 43(8), p.357
※2 前掲書, p.360(第一表), p. 363(第二表)参照
※3 前掲書, p.364
※4 山田康弘(2014)『老人と子供の考古学』吉川弘文館, p.69
写真1, 4-a, 4-b, 4-c, 5-a, 5-b
千葉県船橋市 飛ノ台史跡公園博物館 展示解説パネル撮影物(2017/6当方撮影)
写真2,3
東京大学総合研究博物館 本郷本館(2019/7当方撮影)
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初出 2017/12/8, 一部加筆修正 2019/12/8 長原恵子 |
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