病児・家族支援研究室 Lana-Peace(ラナ・ピース)
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アート・歴史から考える死生観とグリーフケア
死者を思う気持ちとホタテ貝
(青森県上北郡東北町 古屋敷貝塚)
 

貝は古き時代から実の部分を食するだけでなく、貝殻も人々の暮らしの中で役立ってきました。その一つが比較的大きな貝殻を利用して中央に穴を開け、作られる貝輪です。昭和の始め、千葉県の中山競馬場造営工事の際、偶然見つかった蓋付き土器の中には縄文時代後期の貝輪が32枚も重なり合うように収められていました(※1)。この古作(こさく)貝塚からは手首に貝輪を身に着けた状態で埋葬された人骨も出土し、当時の人々が貝輪を大切にしていたことがうかがえます。一方、貝殻を装身具の材料としてではなく、別の意図によって用いたと考えられる例が北海道虻田郡洞爺湖町の高砂貝塚にありました。ホタテ貝で顔を覆われた状態で出土した1歳児の埋葬例です(※2)。亡くなったこどもの顔に土をそのままかけるのは忍びない、顔が汚れないよう、せめて何か顔を覆うものはないかと親が探した時、ホタテ貝の貝殻は大きさも形もちょうど良かったのかもしれません。死者とホタテ貝、その意味について調べを進めていくうち、人々はもっと特別な意味をホタテ貝に見出したのではないかと思う例がありました。今日はそちらを取り上げたいと思います。

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北海道の高砂貝塚から南下すること約200km、津軽海峡を渡った青森県に古屋敷貝塚(縄文前期後半から中期後半 5500〜4000年前)があります。場所は青森県最大面積の湖、小川原(おがわら)湖の南側に位置する姉沼へ流入する小河川の一つ、虫神川に面した丘陵の傾斜地です(※3)

下の図は七戸町教育委員会による『史跡二ツ森貝塚 整備基本構想及び整備基本計画』の中に登場する小川原湖周辺の縄文海進の様子を表わしたイラストの一部をこちらで加筆改変したものです。青い星印で示したところが古屋敷貝塚です(図1)。図の濃い水色は現在の海域と湖沼域、淡い水色は縄文海進当時の海域を示し、点線部分は縄文海進期の海岸線と考えられる部分に相当します。

こうしてみると今では内陸に位置する古屋敷貝塚も、縄文時代はまさに内湾に面した場所であったことがよくわかります。1982年、古屋敷貝塚の発掘調査が行われた際、貝塚直下の沖積地から海面と陸地との境が見つかりました(※4)。極めて多量のニホンジカやイノシシを中心とした獣骨の他、アサリ、ヤマトシジミ、ハマグリやカキといった貝類や、ウナギ、イワシ類、カサゴ類、フグ類等の魚骨が見つかっていることからも(※5)、当時この辺りは山、野、海の幸に恵まれた、暮らしやすい場所だったことがわかります。
発掘エリアの中で貝類・骨類主体の塚が見つかったのは北側が中心で、南側からは遺構がいくつか見つかりました。この中で貝塚・骨塚の広がる部分の南端近くにあった第2号遺構は他とは異なる特徴がありました。地表近く上層の土は炭化物を大量に含み、そこにはホタテ貝が数枚重なった状態で見つかりました。その更に下方を掘り進めると土の下に1体分の人骨が横たわっていたのです。土壙の大きさは上面が南北・東西最大1.3m前後、底面は南北・東西最大1.8m弱で深さは1.43m、末広形、フラスコのような形を呈していました(※6)

■フラスコ型土壙に葬られた女性
縄文時代前期末葉(※7)と考えられる人骨は更なる調査のため、周辺土砂と共に鉄板で囲まれ、原状のまま掘り上げられ、聖マリアンナ医科大学解剖学の森本岩太郎教授(当時)へ調査が委託されました。その結果、この人骨は頭蓋冠の縫合や上下の智歯(親知らず)の萌出、歯の咬耗度等の特徴から、20歳前後であることがわかりました(※8)。また大腿骨と脛骨の最大長から身長は152.0cm、顔立ちは鼻すじの通った丸顔で、肩幅は広く、長い手足は筋肉がよく発達しており、成長期には比較的栄養上恵まれた環境で育った女性であることがわかりました(※9)

女性はホタテ貝が敷き詰められた土壙底面の上に身体の左側を下にし、首は根本部分から軽くうつむくように屈曲し、両膝を強く屈曲して横たわっていました。左腕は真っすぐ下に伸ばし、左手の先は腰の辺りにありました。一方右肘は強く曲げており、右手は顔の前に置くような形をとっていました(※10)

報告書には女性の頭蓋骨の写真も出ていましたが、きれいに整った歯並びがとても印象的です。数千年の時を隔てたことが信じ難いほど、女性の生がリアルに感じられました。 

■ホタテ貝の謎
女性は埋葬された時ホタテ貝の上に横たえられ、ホタテ貝によって土壙に蓋がされていたわけですが、暗褐色の土の中でホタテ貝の白さはひときわ際立っていたことでしょう。それはまるで土の中で「ここは特別な場所だ」と周りに知らしめているかのようです。ホタテ貝によって土の中に結界を張り、女性を守りたかったのだろうかと想像します。古屋敷貝塚から出土した貝の個体数はアサリが最も多く47%、ヤマトシジミが22%(※11)も占めていました。つまりホタテ貝は当時の人々にとって決して手に入れやすい貝というわけではなかったのです。青森県内の貝塚から出土する貝の数と種類について佐藤巧氏は「汀線付近の砂泥底に棲息するハマグリ、シオフキ、汽水域に棲むヤマトシジミに比較し、浅海底に棲息するホタテガイは採集が難しかったことも考えられます。」(※12)と述べられています。貴重なホタテ貝を埋葬時にふんだん用いられたこの女性は、人々にとって特別な存在だったのではないでしょうか。

■副葬品
人骨周囲からは大量の魚骨が見つかりました。更に人骨の上には二重重ねの円筒下層d式の完形土器が復元可能な状態で直立して見つかり、炭化物を多く含んだ土がかけられていました(※13)。この第2号土壙からは装身具に相当するものは見つからなかったものの、土器の他に岩版や磨製石斧や見つかりました(※14)

■第2号土壙の人骨と土壌
さて古屋敷貝塚の地理的な特徴として注意を払うべきものが、火山の存在です。古屋敷貝塚から西側約30kmには八甲田山が、南西約40kmには十和田があります。
八甲田山は現時点で明らかにされている噴火イベントの中で最も古いものは4800年前、マグマ噴火から水蒸気噴火を経てマグマ噴火に至った「Hk-5噴火」(※15)です。女性を埋葬した時期は縄文時代前期末葉ですから、その際掘られた土はこの噴火よりもっと前の噴火・火山灰の影響を受けていると考えられますが、これ以前の噴火詳細については情報は不明です。一方、十和田の場合、女性が埋葬された時期の土壌へ影響を及ぼす可能性があったとして挙げられる噴火は6200年前、マグマ噴火からマグマ水蒸気噴火へ変化した「噴火エピソードC」(※16)です。十和田火山防災協議会は「十和田火山災害想定影響範囲図」の中で6200年前の噴火時の降下火砕物の分布実績から噴火の影響をシミュレーションし、ハザードマップを作成していますが、上空では一年を通じて西からの風が多く、火口東側の地域で降下火砕物の影響が高くなる可能性があるそうです。古屋敷貝塚は十和田から見て北東に位置しますが、将来大規模噴火が起こった場合に降下火砕物が100cmの層厚を示す予想圏内として、古屋敷貝塚周辺も含まれていることをマップ上確認することができます(※17)
大噴火の火山灰が数百年後の土壌へどのような影響をどの程度及ぼすのか、まったく見当も尽きませんが、当時の人々が降灰と共存し、降灰後の大地にも新たな植物の命が巡るようになり、暮らしが戻ってきていた事実は貝塚の継続が教えてくれることでしょう。そしてこの地で暮らした先人らはそこで土葬されても、火山灰の影響によって土壌が酸性化しているため、長きに渡り人骨がその土中で形をとどめることは、本来大変難しいはずだっただろうと想像します。

そうした中で、フラスコ型土壙に葬られた女性の人骨が形状を明確に残したまま見つかったことは、実に奇跡的なことですね。土壙の上方及び底面に用いられたホタテ貝、そして女性の周りにあった大量の魚骨からカルシウム成分が溶け出し、結果的に酸性土壌が中和されたのでしょう。土壙の位置が古屋敷貝塚全体の中で貝類が中心に見つかったエリアから近いことからも、地下土壌に浸み込んだ雨水の地中移動により、第2号土壙の土のpHが影響を受けた可能性も考えられます。

偶然の要素が複数重なり、人骨が保存状態の良いまま後世の発掘に至ったのかもしれません。それでもなお、ここで見逃せないのは女性が葬られた2号土壙の大きさと形状です。元々貯蔵庫として使われていた土壙を埋葬空間として利用したとも考えられますが、身長152cmもある女性を入口が最大径1.3m程度しかない穴から深さ1.43mの土壙の底へと安置することは随分大変だったことでしょう。人骨の鑑定を行った森本先生も貝殻を敷き、貝殻で蓋をし、人骨の上に土器も置かれていたことから「状況から考えて、これは完全に意識的な埋葬であり、単なる遺体の投げ捨てもしくは遺棄とは思われない。」(※18)と報告書に記されていました。
女性の左手は身体の下になりつつも、右手は顔の前に置かれていたことも気になります。右手に美しい花を握らせ、ずっとその芳香をかげるようにと人々が気遣ったからかもしれません。女性の周囲から見つかった多量の魚骨は、彼女がひもじい思いになることを案じた人々が魚を供えた証とも考えられます。彼女のために目前に広がる内湾に小舟を出して漁を行い、たくさんの収穫を抱えて再び土壙のある丘陵斜面を登る時、悲しい気持ちでいっぱいだったことでしょう。磨製石器や岩版も邪悪なものから彼女を守るための道具や護符として祈りを託されたのかもしれません。その延長線上として、ホタテ貝に特別な力を見出した人々は彼女を上下挟み込むようにホタテ貝を置き、地下深く、あるいは地上からやってくる邪悪なものの侵入を防ごうと考えたのだろうかと思います。

数千年の時を経て、発掘によって縄文時代の土壙の存在や人骨といった事実と共に明らかになったのは、死後の生の質を良きものとして保とうとする人々の思いです。20歳前後でこの世の命を終えた女性、まだ人生これから、やりたいこともたくさんあったことでしょう。せめて死後の世界ではその思いが叶いますように……そんな気持ちが込められているように思います。また供え物を用意したり、葬る環境を整えるといった行動によって死者への思いを具現化していくことは、死者へ思いを伝える機会にもなり、残された者にとって心のなぐさめになっていたのだろうと思います。
 
<引用文献・資料, 参考ウェブサイト>
※1 Lana-Peaceエッセイ「古作貝塚 貝輪・貝輪入り蓋付土器(東京国立博物館・東京大学総合研究博物館 蔵)」
※2 Lana-Peaceエッセイ「1歳のこどもを守り続けたホタテガイ
(北海道虻田郡洞爺湖町・高砂貝塚)」
※3 上北町教育委員会(1986)『上北町文化財調査報告書:第2集 上北町古屋敷貝塚 2 (遺構編)』上北町教育委員会, p.1
※4 前掲書3, p.1
※5 八戸市博物館編(1988)『 図録 青森県の貝塚』八戸市博物館, p.18
※6 前掲書3, p.43
※10 前掲書5, p.18
※7 前掲書5, p.18
※8 森本岩太郎(1986)「4. 古屋敷貝塚出土人骨について」『上北町文化財調査報告書:第2集 上北町古屋敷貝塚 2 (遺構編)』上北町教育委員会, p. 65
※9 前掲書8, pp. 69-70
※10 前掲書8, p.65
※11 前掲書5, p.18
※12 佐藤巧(1991)「化石と貝塚のホタテガイ」青森県水産増殖センターだより第57号, p.4
※13 前掲書8, p.65
※14 前掲書8, p.65
※15 国立研究開発法人産業技術総合研究所地質調査総合センター 1万年噴火イベントデータ集(ver. 2.5)「八甲田山」
※16 国立研究開発法人産業技術総合研究所地質調査総合センター 1万年噴火イベントデータ集(ver. 2.5)「十和田」
※17 十和田火山防災協議会「十和田火山災害想定影響範囲図」p.13
※18 前掲書8, p.69
 
<参考文献>
  森本岩太郎(1986)「4. 古屋敷貝塚出土人骨について」『上北町文化財調査報告書:第2集 上北町古屋敷貝塚 2 (遺構編)』上北町教育委員会, pp.64-74  
  佐藤巧(1991)「化石と貝塚のホタテガイ」青森県水産増殖センターだより第57号, pp.4-5
 
<図>
図1 七戸町教育委員会(2018) 『史跡二ツ森貝塚 整備基本構想及び整備基本計画』七戸町教育委員会, p.20図「小川原湖周辺の貝塚及び動物遺存体出土遺跡(縄文時代)」より一部抜粋, 当方一部追記改変
 
<引用写真>
写真1 第2号土壙の人骨取り上げ作業風景
上北町教育委員会(1986)『上北町文化財調査報告書:第2集 上北町古屋敷貝塚 2 (遺構編)』上北町教育委員会, p.1  
 
 
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2021/10/9  長原恵子