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4歳のこどもを守り続けた2つの土器と30個の玉
(北海道虻田郡洞爺湖町・高砂貝塚)
 
品名:
献供土器・副葬土器
 
2019/6  北海道 入江・高砂貝塚館にて当方撮影
出土:
北海道虻田郡洞爺湖町 高砂貝塚(G10号墳墓)
時代:
縄文時代晩期
展示会場:
入江・高砂貝塚館(北海道虻田郡洞爺湖町)
 

昭和40(1965)年、北海道虻田郡洞爺湖町の高砂貝塚から見つかった縄文時代晩期の墳墓の中に、ホタテガイで顔を覆われ、30個の安山岩礫が置かれていたこどもの墳墓のお話を取り上げましたが、高砂貝塚内にはこどもが埋葬された墳墓で「30個」の「石」という要素を合わせ持っている例が、他に一例ありました。それは昭和38(1963)年に行われた第一次調査で発見されたG10号墳墓です。この墳墓から見つかった副葬土器には丁寧に加工された30個の小玉が収められていたのでした。更にこのG10号墳墓は、高砂貝塚の他の墳墓には見られていない構造も有していました。そこには一体、どういう意味があったのか、考えてみたいと思います。

■G10号墳墓
縦80cm、横60cm、深さ40cmの土坑墓から、北西に頭を向けた仰臥屈葬の人骨が発見されました(図1)。ベンガラの付着が広範囲に認められた人骨は上肢骨を除く全身骨格であることが確認され、歯の萌出状態から埋葬されていたのは4歳前後(※1)のこどもだったとわかりました。

写真1はG10号墳墓の発掘時の様子です。写真左側上方から中央に向かって置かれている白く細長い定規の先端あたりに、割れている副葬土器と孔の開いた白っぽい玉をいくつか確認することができます。左上隅の一段高いところには丸い形を保った献供土器が見えます。まずは30個の玉が収められていた副葬土器から見てみましょう。

■副葬土器と30個の玉
ページ冒頭写真の右側、一回り小さい土器が入江・高砂貝塚館に展示されていたG10号墳墓の副葬土器です。きれいに復元されていました。表面には特に凝った縄目の文様や造形は見当たらないシンプルなものですが、報告書の記録によると副葬土器の全面は磨研が加えられて滑沢になっていた(※2)そうです。実は時間をかけ、大切に作られたものです。
また、報告書によると副葬土器の頭部には対峠する2個の貫通孔が確認されました(※3)。貝塚館の展示では見える位置が限られてしまいますが、確かに孔のようなものがありました。紐の遺物は出土していませんが、この孔に紐を通して、吊り下げることを想定して作られた土器だったのかもしれません。

この副葬土器は人骨腰部の右側から見つかりました(※4)。こどもを埋葬する際、土器を携行させるが如く、土器に通した紐を左肩からかけ、右腰のあたりに土器が来るように埋納したのだろうかと想像します。
この土器の中から見つかった小玉は全部で30個、報告書には下の図2に示したように、手書きのイラストで残されていました。小玉は完形品が25個,破載品が5個で、最も大きかったものは径9mm,厚さ7.2mm,最も小さかったものは径8.5mm,厚さ4.5mmで、それぞれ孔径3-4 mmの孔があけられていました(※5)。親が日頃身につけていたネックレスや腕輪をいつまでもこどものそばにい楽天れるようにと持たせたものであれば、こどもの首や腕にかけても良かったはずです。しかしそれらが土器の中から見つかったということは、装身具として着用させたものではありませんね。例えば古くなった親の腕輪を再利用して、紐をほどいて小玉をばらし、こどもは小玉をおはじきのように使って遊んでいた、といった姿も目に浮かんでくるようです。例えば当時、人は亡くなった後も別の世界で生き続けると信じられていたならば、こどもがいつでも楽しく遊べるようにと小玉を土器に入れて持たせたのかもしれません。この土器の器高は14cm、口径9.3cm、底径6cm(※6)、容量を考えると小玉30個以外にも、まだ何かを入れておく余裕は十分あります。小玉以外、当時を辿る痕跡は見つかってはいませんが、死後の世界でひもじい思いをしないようにと、食べ物も一緒に詰め込まれていたかもしれませんね。長い時を経て小玉以外は朽ちても、肌身離さず携えるように埋納されたこの土器と小玉、そこから我が子への親の思いがとぎれることなく伝わってくるようです。

これらの小玉は、緑色凝灰岩で作られていました(※7)。古代の遺跡等からは緑色のヒスイの勾玉がよく発見されていますが、実は緑色凝灰岩製の玉類も見つかっています。例えば新潟県長岡市の大武(だいぶ)遺跡、こちらは国道116号和島バイパス建設に伴い発掘調査が行われ、高砂貝塚よりは時代が新しくなりますが、弥生中期の緑色凝灰岩製の管玉・ヒスイ製勾玉の製作工程を示す遺物が多量に出土しています(※8)
また、香川県東かがわ市の湊山下古墳は国道11号大内白鳥バイパス建設に伴う発掘で見つかった4世紀の円墳ですが、出土した粘土槨(古墳の埋葬形式の一つで木棺の周りが粘土層で覆われたもの)の西半分の被覆粘土内を中心に、ヒスイ製勾玉1点、緑色凝灰岩製管玉とガラス小玉が合計約40点出土しています(※9)
こうした例を見ると「緑」の石材を使った副葬品は死者の弔いのために、随分古くから意味を成していたものだと言えます。

■献供土器
冒頭写真左側の献供土器は頸部に平行沈線、胴部分に条線文が施されているとても美しい、均整のとれた土器です。この土器は出土した場所がとても特徴的でした。高砂貝塚からはG10号墳墓を含め、7つの墳墓から土器が献供されていた例が見つかっており、これらの土器はいずれも壙口外側に置かれていましたが、G10号だけは土坑墓内に張り出し構造が認められ、そこに壷形土器が供えられていたのです(※10)。先に出した図1写真1を見ると明らかであるように、献供土器の置かれていた貼り出し構造は墓壙の中で、わざわざ別格として設けられています。埋葬されたこどもより一段高い場所を用意して、きれいな文様と整形を施した壺を置いた背景には、きっと特別な意味があるのでしょうね。例えば死後の世界で我が子に危険が及ばぬように神に祈りを捧げる時、我が子が横たわる墳墓の底よりも高いところに段を設け、神に水や酒等を供えるために美しい壺を置いたのかもしれません。副葬土器は割れていたけれども、写真1にはっきりと映っているように、献供土器が丸い形を保ったまま出土したことも注目に値します。もちろんそこには土器に使用された土の成分や焼成方法、形状の違いもあるでしょう。覆土の質や量の他に、張り出し構造にも何か一因があるとも考えられます。

報告書にはこうした張り出し構造の貝塚は北海道の恵山貝塚に2例あることが示されていました(※11)ので、一体どういうものだったのか気になって、そちらの原著をあたって調べてみました。
恵山貝塚の発掘は昭和15(1940)年に行われ、19の墳墓が発見されましたが、このうち15号と16号墳墓に張り出し構造が認められました(※12)。15号墳墓は長径170cm、短径120cm、深さ110cmの墳墓で人骨も出土しましたが、円形の張り出しが設けられていたのでした。そこには数個の石による石組が作られ、土器2個分の破片を重ねた上に、扁平有孔の垂飾と思われる玉が副葬されていたのでした。16号墳墓は長径120cm、短径75cm、深さ70cmで、こちらは半円形の張り出しに2個の細長い石がV字状に壙壁に設置され、そこに土器が1点、そしてまるでロシアのマトリョーシカ人形のように、更にその土器の中にもう1点小さな土器が収められていたのです。恵山貝塚の墳墓は縄文晩期の終末期から続縄文期にかけて1世紀〜6世紀ぐらい(※13)と推定されています。高砂貝塚から直線距離にして約90km、同じ北海道、そして噴火湾に面した貝塚、それらの要素を考えると、高砂貝塚の人々と恵山貝塚の人々との間に何らかの通い合う精神性が見て取れるような気がしてきます。

 
<引用文献・資料, 参考ウェブサイト>
※1 三橋公平ほか(1987)『高砂貝塚 噴火湾沿岸貝塚遺跡調査報告2三橋公平教授退職記念号 』札幌医科大学解剖学第二講座, p.116
※2 前掲書1, p.30
※3 前掲書1, p.30
※4 前掲書1, p.16
※5 前掲書1, p.30
※6 前掲書1, p.30
※7 前掲書1, p.30
※8 新潟県教育委員会・財団法人新潟県埋蔵文化財調査事業団(2014)『新潟県埋蔵文化財調査報告書249:大武遺跡2(古代~縄文時代編)4』新潟県教育委員会・財団法人新潟県埋蔵文化財調査事業団, p.65
※9 香川県埋蔵文化財センター(2014)『平成24年度 香川県埋蔵文化センター年報』香川県, p.14
※10 前掲書1, p.16
※11 前掲書1, p.16
※12 名取武光(1960)「網と釣の覚書」北方文化研究報告15, pp.193-194
※13 前掲書12, p.196
 
<図>
図1 G10号墳墓の構造と断層面,
前掲書1, p.19より引用
図2 G10号墳墓から出土した献供土器, 副葬土器, 玉,
前掲書1, p.29より引用
 
<写真>
写真1 G10号墳墓発掘状況,
前掲書1, Pl.Vより引用
写真2 G10号墳墓出土の副葬土器
 
写真2  2019/6 入江・高砂貝塚館にて当方撮影
 
 
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2019/9/7  長原恵子