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9歳のこどもが胸に抱いた石
(北海道虻田郡洞爺湖町・高砂貝塚)
 
品名:
人骨胸部上から出土した石
 
北海道 高砂貝塚 G8号墳墓抱石
三橋公平ほか(1987)『高砂貝塚 噴火湾沿岸貝塚遺跡調査報告2三橋公平教授退職記念号 』札幌医科大学解剖学第二講座,
PL IVより引用
出土:
北海道虻田郡洞爺湖町 高砂貝塚(G8号墳墓)
時代:
縄文時代晩期
 

古き時代の墳墓が発掘された折、人骨の胸腹部のあたりから大きな石が見つかることがあります。それは死者がまるで石を抱いているかのように見えることから、抱石葬(ほうせきそう・だきいしそう)と呼称されます。大正11(1922)年12月、今から100年近く前に開催された東京人類学会の例会講演で解剖学・人類学者の小金井良精(こがねい よしきよ)先生は「死者に石を抱かせて埋葬するといふ意義を推量すれば死者の再帰を防ぐといふことであらう。」(※1)と述べられており、現代もそうした解釈が続いています。たとえどんなに親しき間柄であっても死を境にすると、その人が戻ることを望まず、死者に大きな石を抱かせたのでしょうか。
これまでに発掘された多くの抱石葬のケースは、それが適した解釈なのでしょう。しかし北海道虻田郡洞爺湖町の高砂貝塚の報告書を読んだ時、これまでの解釈の中には納まりきらない、そうとは言い切れないのでは? と個人的に感じる例がありました。それは昭和38(1963)年、札幌医科大学解剖学第二講座が行った第一次発掘調査で見つかったG8号墳墓です。縦90cm、横60cm、深さ35cmの土坑墓から見つかったのは、北西に頭を向けた小児の全身骨格で、歯の萌出状態から9歳前後のこどもである可能性が高い(※2)とわかりました。

図1はG8号墳墓を上と横から見た図です。墳墓の中心部には8cmの厚さの明確な盛土があり、その上面には小礫40個に囲まれた人頭大の亜円礫が2個置かれ、墳墓の周りは13個の石で囲まれていました。そして人骨の胸部の上から大きな石が見つかったのです。ページ冒頭の写真の中央で白く細長い折尺のすぐ左下に見えるのが抱石で、その直下で表面が幾分削れてしまった楕円形の箇所が頭蓋骨です。石は長さ24cm、幅20cm、厚さ13cm、これほどの大きさがあれば、9歳前後の年頃のこどもの胸は石ですっかり隠れるほどですね。報告書には「さながら抱石葬の観を呈していた」(※3)と記載されていました。

こどもの胸にあった石は緑色凝灰岩塊(※4)でした。緑色凝灰岩は火山活動由来の岩ですが、変質作用により緑色を示す粘土鉱物が多量に形成され、緑色を示す(※5)のだそうです。高砂貝塚のG10号墳墓からはこちらで紹介したように、緑色凝灰岩を丁寧に加工した30個もの小玉が、土器に納められた状態で見つかっています。副葬品を作り出すために当時の人々が重要視していた緑色凝灰岩。その大切な原石を再帰してほしくないと思う人の埋葬に、大きな塊ごと用いるでしょうか? 緑は古代においてキーワードとも言え、ヒスイ製勾玉や緑色凝灰岩製の管玉等が、全国各地の様々な墳墓から見つかっています。それは古き時代から人々が「緑色」に特別な弔いの力を見出す、あるいは願いや祈りを託していたからではないでしょうか。もしそうであれば、この緑色凝灰岩の抱石は「死者の再帰の阻止」を目的とした重石として用いられたのではなく、弔いの力をより大きく求めた心の表われだと言えるような気がしてきます。

そう思う理由がG8号人骨の上半身に散布されていたベンガラの存在です。ベンガラ塊も1点見つかりました。ベンガラは赤色顔色として古くから用いられており、墳墓の人骨や副葬品に認められていますが、血液の赤色に見立てて生命力の象徴と解釈されています。G8号人骨のベンガラ散布の位置は抱石の位置と重なります。この9歳前後のこどもを埋葬する際、生命力の象徴であるベンガラを上半身に散布しながら、命が蘇るようにと祈りを捧げられていたのかもしれません。ベンガラが全体的ではなく、上半身だけに部位を限局されていたのは、何か意味があるのでしょうか?

特定の部位だけにベンガラが散布されていたこどもの墳墓の例として、高砂貝塚ではG2号墳墓とG16号墳墓が挙げられます。G2号墳墓は縦90cm、横65cm、深さ35cmの土坑墓で、まるで墳墓を守るかのように17個の配石に囲まれていました。ここから北西に頭を向けた仰臥屈葬の全身骨格が見つかり、歯の萌出状態から13-4歳(※6)と推定されました。このこどもの左の上顎骨と腰椎椎体にベンガラの付着(※7)が認められたのです。
G16号墳墓は縦60cm、横45cm、深さ35cmの土坑墓で、頭を南東に向けた仰臥屈葬のこどもが見つかりました。歯の萌出状態から3-4歳(※8)と推定されています。G16号は全身骨格が残存していましたが、ベンガラが付着していたのは右側頭骨(※9)でした。この墳墓から2つの土器が発見されました。

写真1の一回り大きい方の壷型土器はG16号人骨の足端部に1個副葬されていたものです。報告書の出土時の写真を見ると、副葬土器は折り曲げた膝のあたりに相当する位置に壷の口を頭側に向けた状態で置かれていました。それはあまりにもきれいに形を保っており、長い年月、よく地中で耐えてきたものだと驚きでいっぱいです。
土器の頸部に貫通孔2つを伴う壷形土器はそこから約25cm離れた地点から見つかりました。人体足方の墓壙外で9個の円礫が配置され、その下部に献供されていたのです。報告書にはどちらの土器も共に胴の半面がベンガラで染まっていたことが記載されていました(※10)が、確かに入江・高砂貝塚館に展示されていた土器(※写真1〜3)はその通りでした。土器に残っているベンガラはとても鮮明です。

身体の特定の部位からベンガラの散布痕が見つかる事実から、その部位に対して強い思いが向けられていたことが推察できます。ベンガラはこの世で患った部位、痛みを伴った部位を癒す役割を期待されていたのかもしれません。当時、共通観念として「死後の生」が存在していたならば、ベンガラ散布によって病気の苦しみから解き放たれ、弱った身体とは無縁の人生を死後の世界で送れるようにと、願いが込められたのかもしれませんね。

赤色はこのほかにも魔除けの意味を持つと考える向きもありますが、そうであれば、埋葬されたこどもたちに散布されたベンガラは、死後もずっとこどもたちを邪悪なものから守りたいと願う親心の表われでもあります。

このように考えてみると、G8号墳墓に埋葬されていた9歳前後のこどもの抱いていた石は死者の再帰を怖れたための重石ではなく、緑色に対して弔いの力、あるいは想像を大にすれば芽吹く新緑に躍動感や活力を見出した人々が、その恩恵を死者が直接存分に受けられるよう、転写、充電させるように置いたものだと考えられます。そしてその力を更に補填するかのように血液を想起させるベンガラを散布し、死後の世界でこれから生きる我が子が決して危険な目にあわず、活き活きとした人生を送れるようにと願ったのでしょう。報告書にあったG8号人骨の四肢骨の写真は大変立派できれいでした。長い時を経ても地中でこれほど見事に残っていた骨、もちろんそこには土壌のpHやその土地が後世に攪乱されることがなかった、といった要件が揃っていたのだろうと思います。しかしながらそれはまるで、元気で過ごしていてほしいという親の願いが届いたかのようでもありました。

 
<引用文献・資料, 参考ウェブサイト>
※1 小金井良精(1923)「日本石器時代人の埋葬状態(大正11年12月本會に於ける講演補正)」『人類學雜誌』38巻, 1号, p.35
※2 三橋公平ほか(1987)『高砂貝塚 噴火湾沿岸貝塚遺跡調査報告2三橋公平教授退職記念号 』札幌医科大学解剖学第二講座, p.114
※3 前掲書2, p.20
※4 前掲書2, p.20
※5 須藤俊男ほか編(1980)『粘土鉱物の電子顕微鏡写真図譜』講談社,p.78
※6 前掲書2, p.109
※7 前掲書2, p.110
※8 前掲書2, p.122
※9 前掲書2, p.122
※10 前掲書2, p.33
 
<図>
図1 G8号墳墓の構造と断層面, 前掲書2, p.21より引用
図2 G2号墳墓, 前掲書2, p.21より引用
 
<写真>
写真1 G16号墳墓 献供土器と副葬土器
写真2 G10号墳墓出土の献供土器
写真3 G10号墳墓出土の副葬土器
 
写真1〜3  2019/6 入江・高砂貝塚館にて当方撮影
 
 
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2019/9/16  長原恵子