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濃化異骨症と共に生きたアンリ・ド・トゥールーズ=ロートレック

黒、赤、白、黄色の絶妙なコントラストがとても印象的なムーラン・ルージュのポスター(MOULIN ROUGE, LA GOULUE)を制作した19世紀のフランスの画家アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレック(1864/11/24-1901/9/9)は36年の生涯の中で737枚の油絵、275枚の水彩画、368枚の版画とポスター、5,084枚の素描、その他彫刻、陶芸、ステンドグラスの窓等、精力的に手掛けました(※1)

彼は濃化異骨症(のうかいこつしょう)を患っていたと考えられています(※2)。濃化異骨症とは骨の代謝の酵素に関わる病気で、特徴的な顔貌や四肢短縮の目立つ低身長、骨折しやすさ等から乳幼児期に診断される常染色体劣性遺伝の病気(※3)ですが、この病名自体が医学界に登場したのは彼の死から60年以上経った1962年のことです(※4)。その後ロートレックはこの病気の主な解剖学的特徴をすべて満たすと判断されました(※5)。もちろん彼の幼少期にはまだレントゲン撮影自体ありませんから、残された彼の肖像画、写真、当時の証言等、収集可能な情報が診断の拠り所とされています。

今回ロートレックの幼少期から青年期にかけて、病気が彼の人生に及ぼした影響について、複数回に分けて考えて行こうと思います。第1回目は幼少期から学童期のロートレックのご紹介です。

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■乳児期と成長
1864年11月24日、ロートレックは南仏のアルビでアルフォンス・ド・トゥールーズ=ロートレック=モンファ伯爵、アデル・ド・トゥールーズ=ロートレック=モンファ伯爵夫人の長男として、この世に生を受けました。激しい雷雨の中、難産を成し遂げた母アデルは、その前日に23歳の誕生日を迎えたばかりでした(※6)。彼女にとって忘れられない二重の喜びだったことでしょう。ロートレックは親族一同から愛され「かわいい宝石(プチ・ビジュー)」(※7)と呼ばれて育ちました。

いくら名家の貴族で優秀な乳母の協力が得られたとしても、アデルにとって初めての育児は手探りな部分が多く、心配は尽きなかったことでしょう。彼女は息子がもうすぐ満3カ月になろうとする頃、自身の母親に「そんなに大きなこどもではない」(※8)と手紙に書き送っていました。

やがて生後6カ月になったロートレックは体重は10ポンド6オンス迄増えました(※9)。グラム表示すれば約4,700gです。厚生労働省発表の現代社会の日本の乳児発達曲線(※10)を参照すると、この体重は生後1カ月半の赤ちゃんの中央値に相当します。彼の生まれた当初の体重は不明ですが、今から150年以上前のフランスです。まだ手厚い新生児医療が整っていたとは言い難いことから、出生時点では恐らく平均的な体重だったと考えられます。つまり出生後、明らかな体重増加不良が生じていたのであり、新米母の懸念は正しかったということです。ロートレックの誕生は両親はもとより親族一同待ちわびたものであり、生まれ来る赤ちゃんのために象牙や金銀の玩具までも揃えていたような家庭です(※11)。貧困による低栄養や不適切な養育環境とも無縁です。この頃、医師からは特に異常を指摘されることはなかったものの、今後の彼の足について成長具合に気を配るようにと言われていました(※12)。こどもの発達評価として国際的に用いられているDENVER II(デンバー発達判定法)(※13)を参照すると、生後6カ月では既に両足に体重をかけることができ、大多数のこどもは寝返りできるようになります。体重の伸びから想定すると、彼はまだそうした身体の動きができなくても当然ですが、医師の言葉はずっと気掛かりだったことでしょう。息子が風邪をひいた、発疹が出た、ケガをしたといった幼少期によくある身体の変化を母アデルは細かく手紙に綴り、親族宛てに送っていました(※14)

■幼児〜学童期 運動機能
ロートレックが歩き始めたのは生後17カ月の頃でした(※15)。多くのこどもたちが上手に一人歩きして、中には走ったり、階段を上ったり、後ずさりもできる月齢です。両親は息子の踏み出す一歩、一歩に祈るような眼差しを向けていたことでしょう。その後、彼は一人で歩けるようになりましたが、体格は小柄で歩き方は固くぎこちなく、転倒することもありました(※16)。当時、何か病気を診断されていたわけではありませんが、母の心の中には大丈夫だろうかと不安が付きまとっていました。彼の大泉門(頭頂部にある頭蓋骨の継ぎ目部分で出生時は開いていますが、1歳半頃までに閉じる場所)はまだ閉じられず、舌が幾分もつれ気味で発音も不十分なところがあったからです(※17)。この後大泉門が閉じたのか特に記録には見当たりませんが、彼は大人になってから山高帽をかぶっている写真が多く残されています。室内で絵を描いている時にさえもかぶっています。その理由を「光線のぐあいがいいからなんだよ」(※18)と言っていたそうですが、開いたままの大泉門を守りつつ、小柄な身体をより背が高く見えるようにするための策だったのかもしれません。

また彼は湿度が高いと体調が優れない面もありました(※19)。彼は生家のあるアルビから北東に約33km、父方祖父母宅であるボスク城で多くの時間を過ごしていましたが、10歳で体調を大きく崩してからはニースでの冬季の長期滞在が、彼の心身を支えてくれました。ボスク城からニースまでは直線距離にして東に約400km、移動の大変さは容易に想像がつきますが、冬のニースの暖かく乾燥気味の気候は、こどもの健康増進には代え難かったのでしょう。

ロートレックは小柄でしたが、決して食が細かったわけではありません。「ロートレックの胃袋」(※20)と呼ばれるほど食べることが大好きでした。もちろん素材、栄養、味のすべてにおいて料理人が気を配った料理が食卓に上っていたはずです。彼は館の中でたくさんの使用人に囲まれて育ったせいか大人に物怖じすることもなく、料理を味見して味付けにケチをつけることもありました。彼のそんな姿から「料理人アンリ」(※21)の名もついていました。

7歳頃、ロートレックは小柄で胸は薄く、足もか細い状態でした(※22)。特に足の問題を悩んだ母は彼をルルドに連れて行きました(※23)。ルルドと言えばその10年以上前の1858年、聖母マリアが洞窟に出現し、湧き出た泉の水により治療困難だった病気の人々が治癒したという奇跡のストーリーが伝わる場所です。神のご加護を息子にも分け与えてほしいと願った母の必死さが伝わってきます。

もうすぐ8歳という頃、就学のためにパリに移住しました。学習面だけでなく、身体面の強化も重要課題です。父は毎日息子を乗馬教室へ連れて行くようになりました(※24)。彼は結婚前、兵学校卒業後、第六槍騎兵連隊の少尉であった時分に「連隊の誉れ」(※25)と言われたほど馬術に優れた人です。息子の身体を乗馬で鍛えようと専門家の指導も仰ぎました。母は息子を体操教室に連れて行きました。彼女は「息子は走れる、跳べる、登れる」と主張していましたが、実際の歩行は硬くぎこちなく、転倒することもありました。そこで学校まで徒歩15分の道のりも転んでは大変と、一人で通学することを許されなかったのです(※26)

■幼児期 知育の発達
ロートレックの身体や運動機能のことばかりこうして書き連ねると、随分弱々しいこども、といったイメージが湧いてくるかもしれませんが、実は才気煥発、様々なものに興味を示し、母が「まるで毬みたい」(※27)と表現するようなこどもでした。ロートレックが2歳9カ月の時に誕生した弟リシャールは1歳の誕生日の前日に早世し(※28)、その後はずっと一人っ子として育ちましたが、多くのいとこたちに囲まれて育ちました(※29)。いたずら好きで茶目っ気たっぷりの性格の彼は新しい遊びをどんどん思い付き、いとこたちの中で最年長者として大いにリーダーシップを発揮しました(※30)。「アンリは朝から晩まで歌を歌っています。全く家中を明るくする蟋蟀(こおろぎ)です。あの子が出掛けてしまうと、そのたびにぽっかりと大きな風穴があいてしまうのです。それも、あの子がここで二十人分もの席を占めているからなのです」(※31)と彼の祖母の言葉がありますが、まさに家の中のムードメーカーだったのでした。また就学前から母親を始め、家庭教師や神父からしっかりと様々な教育を受けており、吸収の速いとても聡明なこどもでした。

■幼児期 絵は自分自身
絵は当時、貴族の嗜みの一つでもありました。ロートレックの家系では父、父方祖父、曾祖父に至るまで絵が得意で、父方祖母ガブリエルの言葉「息子たちが山鴫を仕止めるのには、三つの楽しみがあるんですよ。銃を撃つこと、絵を描くこと、舌鼓をうつこと」(※32)がまさに彼らの生活をよく表しています。ロートレックは幼い頃から大人たちが狩猟の成果をスケッチする様子を横で見ているうちに、自分も暖炉から木の燃えさしをとってきて部屋のカーペットの上に線や丸を描くようになりました(※33)

幼児期に彼が参列した洗礼式のエピソード二つは、彼にとって絵は何であったのかをよく物語っていると思いますので紹介しましょう。
弟リシャールの洗礼拝受の日、兄として彼は儀式に参加しましたが、教区の登録簿に自分も署名したいと言い出しました。そこでロートレックを儀式の間世話していた尼僧が、あなたはまだ字を書けないでしょうと答えたところ「じゃ、牛の絵を描くよ」(※34)と彼は言い返したのです。また彼は4歳の頃、叔父夫婦に誕生した長男の洗礼式に参加した際も、署名の代わりに動物の絵を描くから椅子に座らせてとねだっていました(※35)
幼い頃の彼にとって、絵を描くことは楽しい遊びの手段の一つであったでしょうが、画家としての才能の発露が垣間見えるようですね。

■パリの学校生活
翌月で8歳の誕生日を迎えるという1872年10月、7歳のロートレックはパリのフォンターヌ学院(現在のコンドルセ学院)予備第八学級に入学しました」(※36)

彼は学校では「おちびさん」(※37)と呼ばれており、それは母の耳にも入りました。かといって彼自身はそれを「いじめ」「中傷」と受け取っていた節は記録の中では見当たりません。ボスク城の浴室前の廊下の白い漆喰の壁には、父方親族らが背丈を示した線と名前や日付が残っています(※38)。成長の証として刻まれた痕であり、年下の子分的存在だった従弟妹たちの成長記録も目の当たりにしていたわけです。幼心の中でも他者との比較において、いろいろ浮上する感情があったことでしょう。だからこそ就学前から既に「自分は背が低い、だけどそれが一体何だと言うの!?」といった気持ちが培われていたように思います。彼は「おちびさん」を「蔑称」ではなく親しみが込められた「愛称」と捉えていたのではないでしょうか。学校では生涯の友となる親友も幾人かできました。何かいたずらを考えて自分で見本を行い、他の学友達をけしかける(※39)といったやんちゃな一面を発揮できたのは、彼が一人孤独に引きこもっていたわけではないことの表れでもあります。

学校では大変優秀な成績を収めています。1874年、ラテン語作文、ラテン語訳読、国語文法、英文法の四課目でなんと首席を獲得しています。他にも暗誦は第二位、歴史、地理は第三位、数学は第五位と表彰されていました(※40)。学校では大勢の生徒の中、同学年といった条件の元で現実を突きつけられる厳しさもありますが、それは見方を変えれば己を知り、見つめる良い機会にもなり得るわけです。身体的な成長は確かに同級生に遅れを取っているけれど、こうして他者から一目置かれる面も持ち合わせている事実が自負になっていたことでしょう。彼は学校生活を通して、自分の身体的特徴が自分のすべてではない、と改めて思い直すきっかけを手にしたのではないでしょうか。

とは言え、ロートレックの体力面から見ると、同級生と同じスケジュールをこなすことは随分負担がかかることになり、学校を長期間休みがちでした。10歳頃からはひどい痛みに悩まされるようになりました。足全体にまるで骨に亀裂が入った時に見られるような強い痛みが走り、合わせて重度の歯痛も抱えていたのです(※41)。二次性徴へ向かった骨格の変化や、永久歯の生え変わりがこうした痛みを引き起こしたのでしょうか。この頃彼の身長は127cmまで伸びていました(※42)。日本の10歳男児の身長の中央値は139cm(※43)ですから、確かに小柄ではあるものの、彼なりにしっかり成長していたことがわかります。

ロートレックは1874年10月、第7学級に進級しましたが、学校生活の継続を根底から揺るがすほど病状は深刻になりました。11月23日から登校を開始しましたが数週間で学校はクリスマス休暇に入りました。結局新学年の学校生活を十分に謳歌することもなく、1875年1月9日退学し、スペインとの国境に近い南仏の湯治場アメリ=レ=バンに向かいました(※44)

■退学後の治療
温浴により全身の血流を促し、温泉水の有効成分を吸収するといった試みだけでなく、もっと足に直接働きかける治療が必要だと考えたのでしょうか、1875年1月よりロートレックは親元を離れ、パリ郊外ヌイイのヴェリエ医師の元に滞在して足の施術を受けることになりました。18カ月間にも及ぶ当時の様子についてFreyの論文の中に記されています(※45)。そちらを参照するとこの頃ロートレックの足全体に間歇的な痛みがあり、特に膝や足首には刺すような痛みが生じていました。患部の腫れはないものの、まるで木のように硬くなっていました。杖の助けがあればどうにか歩けましたが、足を引きずるような歩き方が両足交互に起こり、全く歩けない状態もしばしば起きました。そこで行われた治療の一つが牽引です。一日の中で数時間牽引が行われました。手術を受けたと記録に登場しませんから、介達(かいたつ)牽引が行われたのでしょう。これはベッドに仰向けになった状態で足を帯状のもの(トラック・バンド)で囲い込み、その上からぐるぐる包帯を巻きあげて帯を固定し、足指側の帯に紐をつけ、その先に重りをぶら下げて牽引する方法です。現代医学でも骨折時に患部の整復及び安静保持に採られる治療法です。10歳のこどもにとって1日数時間、横になった状態で足を引っ張られて過ごす生活は、なかなか大変なものです。足の負担軽減のため庭より外に出歩かないよう禁じられ、移動用に大きな三輪車も用意されました。これはパリのブローニュの森のこども動物園に出かける時等の遠出に活躍したようです(※46)。こうした外出は長い治療生活の中で、一服の清涼剤になったことでしょう。

ヴェリエ医師の元で治療中、母はパリの自宅から毎日、バスや電車を乗り継いで彼に会いに行きました(※47)。一方父は屋内で行われる医師の治療には賛同できず、乗馬こそが息子の健全な成長に必要なものだと考え、面会には殆ど行くことはありませんでした。彼の価値観は1876年1月1日に息子へ贈った鷹狩りに関する専門書に記した献辞に表れています。

「我が子よ、忘れないでもらいたい。戸外での生活、陽光のもとでの生活、それのみが健全な生活だということを。自由を拘束されるものはみなひねくれ果て、すみやかに死に至る。この鷹狩の小著は、広びろとした原野の生活のみを尊重すべきことを君に教えるだろう。そしてもし君がいつの日にか、人生の苦難を知ることになるならば、犬と鷹と、そして何よりも馬が、君の貴重な伴侶となり、幾らかでもその苦難を忘れさせるであろう」。(※48)

いくら父から「自由を拘束されるものはみなひねくれ果て、すみやかに死に至る」と言われても、ロートレックにとってはヴェリエ医師の方針を信頼し、その治療法に身を任せるしかありません。この時期、彼の気持ちを支えたものは一体何だったのでしょう。彼の元々の陽気な性格? 毎日面会に来る母の支え? 長い時間軸で息子の将来を案じてくれた父の存在? いろいろな要素はあるでしょうが、そこに「勉強」と「絵」が欠かせないように私は思います。一体どういうことか、詳しく見てみましょう。

■勉強ーー努力を認められ、称賛されること
退学後、親元を離れて治療を受けていた間、ロートレックは家庭教師について勉強を続けました。またラテン語に長けた教養豊かな才女だった母から、二人の間で交わす会話はラテン語や英語で行おうと提案されています(※49)。他にも彼はギリシャ語、ドイツ語を学んでいました(※50)。息子の知的世界を広げる上で、語学は力強い味方になってくれるはずだと母は期待を寄せていたことでしょう。ロートレックは10歳で既に英語をすらすらと話すことができ、英語で書かれた鷹狩りの専門書を丸ごとフランス語に訳そうと取り組んでいたほどでした。療養中の1875年9月22日、ロートレックが母親に英語の勉強がてら英文で綴った手紙が残されています。そこには冒頭で母からの手紙に対するお礼を述べた後、「今日はとっても良いお知らせがある」と高揚した書き出しと共に、どれだけ今自分が勉強を頑張っているか、細かく英文で綴っています。ギリシャ語の家庭教師から自分の授業態度や課題を褒められ、更に今朝はラテン語の文法の本を読んだのでこれから課題をやろと思っていること、昨日は風呂に入って足の治療に使うであろうプレートを探したこと等を綴っています。親の目がなくても自主的に課題に取り組もうする姿勢は、彼の頑張り屋さんである一面の表れですね。療養生活の中で「自分らしくいられるための時間」や「一生懸命になれる時間」は本当に大事なことです。先に述べたように学校で優秀な成績を収めていたロートレックにとって、退学とは学校での客観的かつ肯定的な他者評価を失うことでもあります。いくら頑張ってもそれが点数上昇として表れたり、試験に合格したり、同級生の前で表彰されるといった機会はもうありません。自分の頑張りを自分の成長として手応えを感じられない時、誰でもやる気が萎んでしまうものです。そのような時、自分の頑張りを認め、褒めてくれた家庭教師の言葉は彼の心にどれほど爽やかな風を吹き込んでくれたことでしょう。嬉しくて親に伝え、この喜びを分かち合いたい、そうした心弾む気持ちは手紙の結びにも表れています。

If I had wings I should go to see you but I have no. I finish my letter by telling you that everybody send you his compliments and particularly your boy who kisses you 1000000000000000 times.

Your affectionate boy, Coco de Lautrec
My kiss

もし僕に翼があったらお母さんに会いに飛んでいきたいけれど、翼はないんだ。みんながお母さんに感謝しているよ。中でも僕はお母さんに千兆回もキスを送るくらいだからね、と記しています。0が15個も並ぶ千兆回のキスとはなかなかこどもらしい表現ですね。

■絵を描くーー求める世界を再現する
活動的なロートレックにとって、痛みを伴う身体で自由の利かない生活を強いられることはどんなに大変だったことでしょう。そんな彼をひと時別世界に連れて行ってくれたのは「絵を描くこと」だったと思います。彼は親族の中でも特に芸術的センスに優れた叔父のシャルルから、幼い頃よりデッサンや水彩画を習っていました(※52)。後にロートレックが進路選択を考えていた十代後半、シャルルのことを手紙の中で「ぼくの心に絵描きの火を灯した」(※53)と表現しています。シャルルが画才の若芽を育ててくれたことをしっかり自覚していたというわけです。

その画才の成長を更に加速させた出会いとして忘れてはいけないのは動物画家として名高いルネ・プランストーです。ロートレックがパリへ移住した際、父は友人でもあるプランストーのアトリエに息子を連れていくようになりました(※54)。馬を巧みに描き出すプランストーの指先をきっと食い入るように見つめていたことでしょう。ボスク城には厩舎が併設されており、ロートレックは幼き頃から馬に慣れ親しみ、名前をつけてかわいがっていました。馬をこよなく愛する少年にとって、馬は馬車を引くための動力源としてではなく、大人や自由の象徴でもあったのかもしれません。狩りの虜になっていた父からは、獲物に向かう上で馬はまさに人と一体化して突進する大事な相棒として、多くの話を聞いていたはずです。静と動を比すれば圧倒的に動に惹きつけられていたロートレックにとって、動の瞬間を切り出して描くプランストーはまさに尊敬の対象です。プランストーは20歳程年下のロートレックのことを「ちび」と呼んでかわいがり、指導しました(※55)。プランストーは生来耳が不自由であったけれどもコミュニケーション方法を習得し、活躍した画家です(※56)。身体のハンディがあったとしても工夫次第で道が開け、才能を発揮する姿を目の当たりにして、心通うものを感じたのではないでしょうか。プランストーは1874年、ロートレック父子と共に乗馬した思い出を素描に残しています(TROIS CAVALIERS : TOULOUSE-LAUTREC ENTRE SON PÈRE ET RENÉ PRINCETEAU)。皆と一列に横並びで共に馬を闊歩させる中、背筋をすっと伸ばし、左隣のプランストーの馬が頭を垂れて右前足の膝を気にしている様子に視線を送っています。右隣の父が自分の馬の手綱を引いてくれたおかげで、自分の馬から注意を逸らしても安心していた様子が伺えます。1874年とは翌年明けに退学の決意に至るほどロートレックの身体の不調が辛かった年です。そこから考えると、この素描の中のロートレックは彼にとって痛みが減じたひととき、格別の時間だったことでしょう。

1875年、ロートレックは母と連れ立ってプランストーの描いたジョージ・ワシントン大統領の肖像画を見に行きました(※57)。こちらは翌年開催されるフィラデルフィア万国博覧会に出展される(※58)予定で、作品が渡米する前に駆け付けたというわけです。退学し、ヴェリエ医師の治療を受けていたロートレックにとって、馬に乗った凛々しい大統領の姿は眩しく映ると共に、アメリカ合衆国独立100周年祝賀のフランスの代表作としてこれからまさに海を渡る師匠の絵に、憧れや希望に満ちた可能性を大いに感じ取っていたのではないでしょうか。

1875-76年頃のロートレックの学習帳の中には、何頭もの馬の姿が描かれています。自分の足は不自由ではあるけれど、疾走する馬の絵を描きながら、共に風を切り、大地を駆ける蹄の音が蘇ったことでしょう。また1876年1月には馬の絵の専門家クラフティの素描を手に入れています(※59)。自由に出かけられない彼にとっては大切なお手本ですね。限られた環境の中で、最大限自分が心地良く過ごす工夫をすることは大切です。

ロートレックは個性的な人物画も大変上手でした。1876-1878年頃の学習帳には各人の性格までも露わにしたかのような人物画を描いています。ページの下半分には筆記体の文章が数行書かれており、その上半分は2人の男性が並んで座り、その向かいでカウンターのような場所から1人の男性が身を乗り出すように前傾姿勢をとっています。シンプルな黒のペンの筆致だけで大人の男性をこんなにもうまく描きわけるとは、何とも鋭い観察眼と表現力です。

このように長い療養生活の中でもロートレックは決してすさんだ気持ちで日々を過ごしていたわけではありません。それを裏付けるエピソードとして、1878年1月の寄稿を挙げることができます。彼は親友ルイ・パスカルが作った小新聞『レコ・フランセ』に寄稿するよう頼まれた際、「ペリカンとうなぎの物語」と名付けたコントを送りました。それはとても評判が良かった自信作でした(※60)。精神的に塞ぎ込んでいては、機知に富むストーリーを考えること自体できませんから、当時彼の気持ちが伸びやかに過ごせていたことが伺えます。13歳の少年が病気に屈しない大きな心の度量を持ち合わせていた、その事実に対し感服せずにはいられません。

 
絵画参照先:
-
Occitanie Musées ウェブサイト 
MOULIN ROUGE, LA GOULUE (フランス・トゥールーズ=ロートレック美術館蔵) 
-
Occitanie Musées ウェブサイト 
TROIS CAVALIERS : TOULOUSE-LAUTREC ENTRE SON PÈRE ET RENÉ PRINCETEAU (フランス・トゥールーズ=ロートレック美術館蔵)
 
引用文献:
※1 Julia Frey(1985)Henri de Toulouse-Lautrec: A Biography of the Artist. In:Riva Castleman, Wolfgang Wittrock,Henri De Toulouse-Lautrec: Images of the 1890's. p.19. The Museum of Modern Artmoma
※2 Maroteaux P, Lamy M.(1965)THE MALADY OF TOULOUSE-LAUTREC, JAMA, Mar 1;191, pp.715-717
※3 田中弘之(2001)「pyknodysostosis (濃化異骨症)」『小児科診療』64(suppl), p.415
※4 Lamy M(1962)La Pycnodysostose, Presse Med, 70, pp. 999-1002
※5 前掲書2, p.717
※6 アンリ・ペリュショ著, 千葉順訳(1979)『ロートレックの生涯』講談社, p.427 
※7 前掲書6, p.14
※8 1865/2/22 母アデルが自分の母親に送った手紙
前掲書1, p.22
※9 Julia B. Frey(1995) What dwarfed Toulouse-Lautrec?, Nature Genetics, 10 (2), p.128
※10 厚生労働省平成22年度乳幼児身体発育調査 図1 乳幼児(男子)身体発育曲線(体重)
※11 前掲書6, p.12
※12 前掲書9, p.128
※13 奈良間美保(2020)第2章 子どもの成長・発達, DENVER II(デンバー発達判定法)記録票, 『小児看護学概論・小児臨床看護総論』第14版, 医学書院, p.50
※14 前掲書9, p.128
※15 前掲書9, p.128
※16 前掲書9, p.129
※17 前掲書6, p.25
※18 曽根元吉訳, フィリップ・ユイスマン, M.G.ドルチュ共著[他](1965)『ロートレックによるロートレック』美術出版社, p.69
※19 前掲書6, p.45
※20 前掲書6, p.29
※21 前掲書6, p.40
※22 前掲書6, p.25
※23 前掲書9, p.128
※24 前掲書6, p.31
※25 前掲書6, p.20
※26 前掲書9, 129
※27 前掲書6, p.23
※28 前掲書6, p.23
※29 ロートレックの父の妹と母の弟が結婚したことにより、ロートレックより年下の14人の従弟妹が生まれました。幼い頃から、多くの交流がありました。
※30 前掲書6, p.29
※31 前掲書6, p.40
※32 前掲書6, p.16
※33 前掲書6, p.17
※34 前掲書6, p.17
※35 W.Michael Lovelt, Mana Derakhshani訳, Mary Tapié de Céleyran著(1982)A Toulouse-Lautrec Album, Gibbs M. Smith, Inc., p.18
※36 前掲書6, p.30
※37 前掲書6, p.31
※38 林綾野, 千足伸行編著(2009)『ロートレックの食卓』講談社, p.38
※39 前掲書6, p.31
※40 前掲書6, p.39
※41 前掲書9, p.129
※42 前掲書9, p.129
※43 文部科学省 2020年度学校保健統計調査による身体発育値及び発育曲線
※44 前掲書6, pp.38-39
※45 前掲書9, p.129
※46 前掲書1, p.23。
※47 前掲書1, p.23
※48 前掲書6, p.43
※49 前掲書35, p.28
※50 前掲書6, p.43
※51 Karen Elizabeth Gordon, Holly Johnson(編)(1997)My Dear Mother, Algonquin Books, p.6
※52 前掲書6, p.46
※53 アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレック著, 藤田尊潮訳編(2014)『トゥールーズ=ロートレック自作を語る画文集世紀末のモンマルトルにて』八坂書房, p.12
※54 前掲書6, p.34
※55 前掲書6, p.37
※56 前掲書6, p.35
※57 杉山菜穂子著, 高橋明也監修(2011)『もっと知りたいロートレック生涯と作品』東京美術, p.7
※58 René Princeteau, RKD – Netherlands Institute for Art History(オランダ美術史研究所)
※59 ジェラール・デュロゾワ著, 小勝礼子訳(1994)『ロートレック』岩波書店, pp.6-7
※60 前掲書6, p.47
 
参考文献:
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曽根元吉訳, フィリップ・ユイスマン, M.G.ドルチュ 共著[他](1965)『ロートレックによるロートレック』美術出版社
-
アンリ・ペリュショ著, 千葉順訳(1979)『ロートレックの生涯』講談社
-
高津道昭(1994)『ロートレックの謎を解く』新潮社
-
ジェラール・デュロゾワ著, 小勝礼子訳(1994)『ロートレック』岩波書店
-
早川智, 佐藤和雄(2000)「ミューズの病跡学」『産科と婦人科』67(5) 649-651
-
マチアス・アーノルド著, Mitsuo Hamma訳(2001)『アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレック 1864-1901人生の劇場』タッシェン・ジャパン
-
田中弘之(2001)「pyknodysostosis (濃化異骨症)」『小児科診療』64(suppl), p.415
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鹿島茂(2001)「没後100年記念特集ロートレック 人間は醜い, けれど人生は美しい!」『芸術新潮』pp.8-66
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篠田達明(2001)「ロートレックの病気遍歴」『芸術新潮』pp.67-70
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アルマン・マリー・ルロワ著, 上野直人監修, 築地誠子訳(2006)『ヒトの変異 人体の遺伝的多様性について』みすず書房
-
クレール・フレーシュ著, ジョゼ・フレーシュ著, 山田美明訳, 千足伸行監修 (2007)『ロートレック ―世紀末の闇を照らす』創元社
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林綾野, 千足伸行編著(2009)『ロートレックの食卓』講談社
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杉山菜穂子著, 高橋明也監修(2011)『もっと知りたいロートレック生涯と作品』東京美術
-
アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレック著, 藤田尊潮訳編(2014)『トゥールーズ=ロートレック  [自作を語る画文集] 世紀末のモンマルトルにて』八坂書房
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Humphrey Hare訳, Henri Perruchot著(1960)Toulouse-Lautrec, The World Publishing Co.
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Lamy M(1962)La Pycnodysostose, Presse Med, 70, pp. 999-1002
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如何ともし難い治療過程の真っ只中で、何か一生懸命打ち込むものがあり、その子らしさを発揮できる時間を持てることはとても大切ですね。どんな状況下であっても、得意なことによりその成果を肯定的に他者から評価され、自己効力感を保ち続けることができれば、現状受容の下地を強化することにも繋がります。
そうした月日の積み重ねは、逆境に負けない強さを次第に築き上げていくのだと思います。
初出:2022/3/27 一部加筆修正:2022/6/2  長原恵子
 
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