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- 器官劣等性が及ぼす影響 -
濃化異骨症と共に生きたアンリ・ド・トゥールーズ=ロートレック

今日はフランスの画家アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレックについて第5回目となります。今回のテーマは彼が思春期時に抱えていた容姿の悩みです。問題とどう向き合っていたのか、その背景にあるものについて、彼の言葉を追いながら考えていこうと思います。

---*---*---*---

■成長と身長
濃化異骨症(のうかいこつしょう)は骨の代謝に関わる酵素(カテプシンK)の機能に関わる病気で、乳幼児期に顔貌の特徴や四肢短縮の目立つ低身長、骨折しやすさ等から診断され、軟骨細胞の異常により低身長がもたらされる(※1)と言われています。ロートレックはこの濃化異骨症を患っていたと考えられています(※2)が、彼が存命中に診断されたわけではなく、当時はその病名自体も存在していなかったのでした。息子の成長の遅れや病弱さ等、原因がわからない状態で初めて取り組む子育ては、特に母アデルにとって悩み多きものでした。ロートレックが生後3カ月頃、彼女は息子が小さいのではないかと心配していました(※3)が、生後6カ月時には体重増加不良は顕著になっていました(※4)。ロートレックは小柄で病弱な面はありましたが、食欲旺盛で活気に充ちた利発なこどもでした。彼はフォンターヌ学院入学後、級友らから「おちびさん」(※5)と呼ばれていました。自ら考えたいたずらの手本を見せ、仲間をけしかけて悪ふざけするエピソード等(※6)から考えると、彼は級友から「おちびさん」と呼ばれても冷遇されているとは捉えず、むしろ愛称のように受け止めていたのでしょう。学童期半ばになると脚の痛みや歩行の不調が目立つようになり、治療のために学校を退学し、10代前半に2度にわたり大腿骨骨折を経験してからは、身長の伸びも止まってしまいました。

彼がこども時代を多く過ごした南仏のボスク城の白い漆喰の壁には、当時、ロートレック家の親族らがそれぞれの身長を記した跡が残されています。日本でもこどもの身長を測り、柱に刻む様子が歌われている童謡「背くらべ」(海野厚作詞・中山晋平作曲)がありますが、しばらくぶりの身長測定は成長の証として国の違いを問わず感慨深いものであったはずです。しかしロートレックにとっては厳しい現実を突きつけられる機会でした。これまで伸び悩んでいた身長ですが、2度目の骨折後、前年に比べ彼の身長は1cmしか伸びていなかったことが明らかになりなったのです。当時ボスク城の使用人らは彼を不憫に思い、この壁を「嘆きの壁」と呼びました(※7)。ロートレックの身長は18歳の時点で152cmであり、これは当時のフランスの徴兵基準にぎりぎり合格の数字でした(※8)。当時の写真を見る限りでは、彼は体幹部や頭頸部の成長には特に遜色がなかったようです。その分全体を見ると上半身・下半身のアンバランスさが強調されることになります。ロートレックの美意識からは、そうした部分も気になる点だったかもしれません。

■顔立ちの変化
2度目の骨折後、療養先のバレージュで14歳の秋を迎えていたロートレックは孤独感に苛まれていました。本を読んでも、絵を描いても萎える気持ちは続き、一人で過ごす寂しさが紛れることはありません。その頃、従妹のジャンヌ・ダルマニャックが家族と共にバレージュに滞在していたことから、お見舞いにきてくれないかと待ち焦がれるようになりました。しかしいざ彼女が来訪し、おしゃべりをしてもロートレックは心からその時間を楽しむことはできませんでした。背が高く、とても美しい彼女を背が低くハンサムでもない自分が直視する勇気がない、と嘆く気持ちがあったのです(※9)

ロートレック家の当主の長男として生まれ、幼い頃から「かわいい宝石(プチ・ビジュー)」(※10)と呼ばれ周囲から大変愛されてきたロートレックでしたが、 思春期を迎えると第二次性徴に伴いかわいらしさから脱却していきました。顔のパーツも変化し、大人びた顔立ちとなり、唇は発音が変わるほど厚くなっていきました(※11)。彼はこの年、大叔母に送った手紙の中で、自分の容姿を自嘲気味に表現しています。

この上品さのかけらもない姿、この肉のついたお尻、このジャガイモ鼻をみてください。……たしかに美しくはありませんけれども、ノックを聞きつけてやって来た管理人フラヴィが、私の姿に驚いて叫び声をあげても気にすることなく……私は脚が許すかぎり(2度骨折しています。哀れな脚です!……)の速さで階段を昇っていきました。(……) 

H.de T.L.(※12)

■容姿と病気と遺伝
成人後、ロートレックは容姿についてどう考えていたのでしょうか。パリのモンマルトルのアイリッシュアメリカンバーでのエピソードが象徴的なため、ご紹介したいと思います。バーでは女性2名が飼い犬の話で白熱した議論を交わしていました。一方の女性が飼っている犬は毛並みが悪く、足は曲がり、臀部の形成異常により足が震えていたことから、相手の女性はそれを侮蔑的に評しました。しかし飼い主の女性も負けてはいません。見た目が芳しくなくてもこの犬は純血種だと主張した時、隣に座っていたロートレックに突然声をかけてきたのです。

「すみませんが、彼女に言っていただけません?
私の犬は醜いけれど、血統書付きだって。そういうことは十分にありうるって」。

ロートレックは高いスツールからおりて147.5センチの身長で立つと、デッサン用の木炭がついた手で帽子に触れて会釈しながらつぶやいた。「まったくその通りです」。(※13)(注1)

飼い主の女性とロートレックのやり取りから推測するに、二人はよく知っている間柄ではなさそうです。たまたまバーカウンターに横並びで隣に座っていたのでしょう。犬の飼い主の女性は愛犬を悪く言われたことに立腹し、品の良いこの紳士ならきっと援護射撃してくれるだろうと思い、声をかけたのかもしれません。高いスツールに着座していたロートレックが帽子をかぶっていたことから、彼が平均的な身長よりは随分小柄であったと気付いていなかったのでしょう。ロートレックは幼い頃から父親側の先祖は王族との婚姻関係もあるといった話を母より聞かされ、無邪気に「それじゃあ、王様たちがぼくの親戚だって言えるかもしれないね」と答えていたエピソードも伝わっています(※14)が、まさか彼が南仏の名家、伯爵家の出であるとその女性は知らなかったはずです。

濃化異骨症は常染色体劣性遺伝の病気であり、父方と母方からそれぞれ受け継いだ遺伝子により病気が発生したということになります。彼がこの病気を患っていたとみなされるようになったのはロートレックの死後のことですから、もちろん彼が自分の病気、身体の特徴、遺伝の関係について正しく認識していたわけではないでしょう。しかしながら彼のいとこには明らかに骨格系の発達や歩行機能に問題を抱えていた人が複数いました。中には成長後も大きな乳母車の利用を余儀なくされた人もいました(※15)。彼女らはいずれもロートレックの叔父アメディ・叔母アリックス夫妻の間に生まれたこどもで、叔父は母の弟、叔母は父の妹でした。そしてロートレクの両親はそれぞれの母親同士が姉妹、つまり両親はいとこ婚だったのでした(※16)。当時の貴族は財産分散を防ぐため、こうした血族結婚は伝統的に行われていましたが、ロートレックは遺伝的な問題を既に何か察していたのかもしれません。

■自己受容と器官劣等性
ロートレックが飼い主の女性の考えに賛同する言葉を発した時、一体どんな気持ちだったのでしょう。否が応でも聞こえてくる隣席の犬の話を自分の身に置き換え、いたたまれなかったことでしょう。しかしロートレックはそこで感情的になることはなく、二人の会話に割って入って、無理矢理制したというわけでもありません。意見を求められた時に、冷静かつ礼儀正しく対応できたのはなぜでしょうか。あくまでも私見ですが、そこには成人になったロートレックが自分の身体的特徴を自己受容できていたことが理由の一つとして考えられます。

ロートレックが10代後半のバカロレア再受験前、親友とのやり取りから気持ちの立て直しができたことをオーストリアの医師アルフレッド・アドラーの説いた「共同体感覚」の概念を用いてこちら(※17)で紹介しましたが、アドラーはハンディキャップを持つ患者たちとの出会いで得た気付きがありました。それは「器官劣等性」です。彼の診療所は大きな遊園地を有する公園近くにあり、遊園地で働く軽業師や大道芸人達が受診していました。彼らはハンディキャップを抱えながらも、そこから生じるマイナスをどうにか補償しようとし、そうした取り組みがやがて何らかの形で彼/彼女らの性格形成や行動に影響を与えたとアドラーは考えたのです(※18)。ここでアドラーの示す「劣等」とはさげすむ意味を有してはいないことを留意しておきましょう。アドラーが器官劣等性について明確な定義を残しているわけではありませんが、彼の著作の前後の文脈から考えてみると、身体の各種器官について本来期待されるべき働きが十分ではない状態を「器官劣等性」と表現していると考えると良いでしょう。「劣等性」はあくまでも客観的な事実であり、十分ではないことに対して卑屈に思う、すなわち「劣等感」を意味するものではありません。この点から見ると、ロートレックは濃化異骨症により骨格系等の器官劣等性を有していたと表現することができます。では器官劣等性がその人物に対してどのような影響を及ぼすのでしょうか。アドラーは次のように述べています。

器官劣等性は、多くの障害をもたらすが、この障害は決して逃れられない運命ではない。もしも心がそれ自体で積極的であり、障害を克服するために一生懸命働けば、障害を持たずに生まれた人と同じだけ成功して当然なのである。当然、器官劣等性のある子どもは、障害にもかかわらず、非常にしばしば、あらゆる利点と共に人生を始める子どもたちよりも多くのことを成し遂げる。障害が、刺激になって、前に進むことを可能にする。例えば、少年は、視覚障害のために並外れたストレスをこうむるかもしれない。視力のいい他の同年齢の子どもよりも、見ることに集中する。目に見える世界により注意をする。そして、色と形を区別することにより関心を持つ。ついには、見える世界をそれを見るために目を緊張させない子どもたちよりも、理解するようになるのである。こうして、不完全な器官が大きな利点の源泉になりうる。しかし、これは、心がこのような不完全さを克服する方法を見出した時だけである。画家や詩人である多くの人が視力が十分でないことを知られている。不完全さは、心をよく鍛えることで克服され、ついには、完全な視力を持った他の人よりも、目をよりよい目的のために用いることができるだろう。(※19)

劣等器官があるか、あるいは、分泌異常のある子どもが直面する困難を叙述したのは、私が最初だと思う。(略)私は、最初から、このような欠陥を遺伝や身体の状態のせいにする根拠というよりも、これらの困難を克服する方法を探していたのである。どんな身体欠陥も、歪んだライフスタイルを発達させることを人に強制しない。腺が同じ影響をもたらす人を二人として見出すことはない。実際、困難を克服する子どもたち、困難を克服する際に、並外れた有用な能力を発達させる子どもたちをわれわれはしばしば見出すのである。(※20)

これらのメッセージをロートレックに当てはめて考えてみましょう。濃化異骨症による骨格の成長障害や病弱さは、彼の成長過程に影響を及ぼしました。他のこどもたちが学校生活を楽しみ、自由に外出して駆けまわることのできた時間、彼は養生のためにベッドで静かに過ごさなければいけなかったのでした。身体的な理由で「自由に遊びに出かけられない」「友人らと同じように学校に通うことができない」といった「行動における理不尽さ」の試練を重ねてきたのです。しかし逆に彼は自分のエネルギーと時間を絵を描くことに存分に注ぐことができました。つまり身体としての不完全さ、器官劣等性を有していたからこそ、絵に集中する機会をしっかり持つことができたとも言えます。それは生来兼ね備えていたであろう彼の絵の才能の芽をより一層高みに向かって、導き育てることになったのです。ロートレックはどうしようもできない事実があることに無理に抗うのではなく、そうした狭まった条件の中でいかに自分が有意義に過ごすか考え、行動を起こすことを幼い頃から幾度もトレーニングされてきたとも言えます。やがて思春期になり、理不尽さの意識の矛先が「行動」から「容姿」に向けられるようになった時、彼はかつての経験を活かしたのでしょう。自分の望みどおりではない容姿への不満に捕らわれの身になるのではなく、自分の得意な能力を伸ばす方向へ力を注ぐことで、思い悩む気持ちを昇華させていったということです。もし全く器官劣等性がなく、理不尽さとは縁のなかったこどもであった場合、いきなり思春期で「容姿」の「理不尽さ(どれほど取り組んでも本人の努力や治療だけでは現状改善しない状況)」にぶつかったら、もっと大きな挫折に繋がったのかもしれません。つまり幼い頃から続く器官劣等性が、思春期の彼の心を助けたとも言えますね。

ロートレックの次の言葉が伝わっています。

「ぼくの脚がもう少し長かったら、けっして絵を描きはしなかっただろう」(※21)

絵を描くことは、理想の外見に捕らわれる自分を解放してくれた、と言えるのではないでしょうか。

ロートレックは知人の写真家ポール・セスコーに言ったとされる言葉があります。

「人間は醜いかもしれない。しかし人生は美しい」(※22)

自分の病身も、容姿も、人生も、すべて丸ごと引き受けたからこそ言える言葉だと思います。楽しいことも、苦い経験も積み重ね、大人へと成長したロートレックはもう、背の高い美しいいとこを直視できずに悩んでいたかつてのロートレックとは違います。たとえ器官劣等性を抱え続けていたとしても「人は変わる」のです。出来事や事象が変わらなくても、その人自身の感じる生き辛さが変わるということです。

それはアドラーにも見て取ることができます。幼少期にくる病を患っていたアドラーは、2歳年上で健康で自由に動ける兄と自分を比べ、家の中で自分は兄の陰のような存在だと感じていた時期がありました。しかし後になって彼は、当時両親は自分の体力増進のためにできることをすべてしてくれた、と気付きました(※23)。くる病の自分は兄の陰のような存在だった、という彼の認識は誤りで、真正面から光を当てられる存在であったと気付いたわけです。

ロートレックは作品の署名をする時、「Lautrec」(ロートレック)ではなく「Treclau」(トレクロー)と文字の順序を変えたアナグラムを用いていた時期がありました。1882年から1888年にかけて、10代後半から20代前半にかけてのことです。1890年以後には「TL」や「T.-Lautrec」が使われるようになりました(※24)。自分を偽ることなく、世の中で堂々と自分の作品を主張していこうといった決意や気概が感じられます。1891年、MOULIN ROUGE, LA GOULUE(※絵画1)が宣伝用に街に貼り出されて大きな反響が巻き起こった時、彼はこれから思う存分描こうと思いました(※25)。容姿を思い悩む思春期の次元からは遥かに超えた、自分自身を確立したロートレックへと成長していたのでした。

 
参照絵画:
絵画1
Occitanie Musées ウェブサイト 
MOULIN ROUGE, LA GOULUE (フランス・トゥールーズ=ロートレック美術館蔵) 
 
引用文献:
※1 田中弘之(2001)「pyknodysostosis (濃化異骨症)」『小児科診療』64(suppl), p.415
※2 Maroteaux P, Lamy M.(1965)THE MALADY OF TOULOUSE-LAUTREC, JAMA, Mar 1;191, pp.715-717
※3 Julia Frey(1985)Henri de Toulouse-Lautrec: A Biography of the Artist. In:Riva Castleman, Wolfgang Wittrock,Henri De Toulouse-Lautrec: Images of the 1890's. p.22,
The Museum of Modern Artmoma 
1865/2/22 母アデールが自分の母親に送った手紙
※4 Julia B. Frey(1995) What dwarfed Toulouse-Lautrec?, Nature Genetics, 10 (2), p.128
※5 アンリ・ペリュショ著, 千葉順訳(1979)『ロートレックの生涯』講談社, p.31
※6 前掲書5, p.31
※7 前掲書5, p.56
※8 林綾野, 千足伸行編著(2009)『ロートレックの食卓』講談社, p.38及びp.62
※9 Julia Frey(1994) Toulouse-Lautrec : a life, New York, Viking Penguin, p.107 
1879年9月ロートレックから友人宛ての手紙
※10 前掲書5, p.14
※11 前掲書5, p.56
※12 H.de T.L.(※クレール・フレーシュ著, ジョゼ・フレーシュ著, 山田美明訳, 千足伸行監修 (2007)『ロートレック ―世紀末の闇を照らす』創元社, pp.137-138 
1879年ロートレックから大叔母ジョゼフィーヌ・デュ・ボスクに送った手紙
※13 アルマン・マリー・ルロワ著, 上野直人監修, 築地誠子訳(2006)『ヒトの変異 人体の遺伝的多様性について』みすず書房, p.145
※14 前掲書5, p.25
※15 Julia Frey(1994) Toulouse-Lautrec : a life, New York, Viking Penguin, p. 71
※16 前掲書5, p.11
※17 ※17 1-1-118.html
※18 岸見一郎(2016)『アドラー『人生の意味の心理学』』日本放送協会編 NHK出版, pp.13-14
※19 アルフレッド・アドラー著, 岸見一郎訳(2010)『人生の意味の心理学 上』アルテ, p.42
※20 前掲書19, p.22
※21 前掲書5, p.75
※22 前掲書8, p.62
※23 前掲書18, p.12
※24 曽根元吉訳, フィリップ・ユイスマン, M.G.ドルチュ 共著[他](1965)『ロートレックによるロートレック』美術出版社, p.238
※25 Mary Tapie de Celeyran(1982)A Toulouse-Lautrec Album, G.M. Smith, p.86 "I will paint to my heart's content."
   
注釈:
※注1 ここでは身長が147.5cmとありますが、国内でロートレックの身長については152cmと表記しているものが多数です。こちらの訳本の英文原書(Armand Marie Leroi(2005)Mutants: On Genetic Variety and the Human Body, Penguinを参照すると"four feet eleven inches"とあります。4フィート11インチを農林水産省の計量単位換算表に基づき換算すると149.86cmです。今回は多数を占める152cmの表記を参考に話を進めます。
 
自分にとって弱点だと思っていたことが、実は新たに大きく飛躍するきっかけだ、と思えるようになると、抱えていた生き辛さはきっと変わっていくのだと思います。
2022/8/9  長原恵子
 
 
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