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- おなかで音楽を聴く画家 ルネ・プランストー -
(アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレックの指導者)

これまでフランスの画家アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレックについて7回にわたりご紹介してきましたが(※1)、絵画における彼の天賦の才能は少年時代に出会った画家の導きにより、飛躍的に伸びていきました。画家の名は「ルネ・プランストー」。南仏出身の画家で特に動物を描くことで評価が高く、官展(サロン)に出品し、油彩画や彫刻は複数回国家買い上げにもなった画家です(※2)。彼が描いた馬に乗るジョージ・ワシントンの肖像画「Equestrian portrait of George Washington」(※絵画1)は、アメリカ建国100周年を祝い1876年に開催されたフィラデルフィア万国博覧会にも出展されました。作品が渡米する前年、足の治療中だったロートレックは入院先から母と連れ立ってパリに向かい、師匠の作品を見に行きました(※3)。画家としても人生の先輩としても慕っていたプランストーの作品、縦4m弱、横約3mの大きな油彩画を前に、ロートレック少年の胸は高揚していたことでしょう。

プランストーがロートレックを指導するようになったのは、ロートレックが就学のためにパリを生活拠点にするようになった1872年が始まりで、もうすぐ8歳という頃でした。ロートレックの父アルフォンスからの依頼によるものです。ロートレックが10歳の頃、プランストーとロートレック父子がそれぞれ馬の背に乗り、散策している場面がプランストーの線描画によって残されています(※絵画2)。単なる教師と生徒親子といった感じではなく、そこに漂う雰囲気は穏やかで和やかです。プランストーは早くからロートレックの才能を高く評価していました。ロートレックは14歳の頃、騎兵隊の将校を描いたプランストーの作品を模写しましたが、その出来栄えの見事さにプランストー自身、寒気を覚えるほど感嘆したと振り返っています(※4)。ロートレックが10代後半を迎えて進路を考えていた頃、今後彼が絵の道に邁進できるよう両親に進言してくれたのもプランストーでした。ロートレックは自分の作品の出来栄えを見て感服する師匠の様子を目にすると、彼自身も至上の喜びを感じていました。師匠がこんなにも自分の実力を評価してくれる、その事実がロートレックに大きな自信を呼び寄せてくれたことでしょう。またそうした息子の幸せな様子を傍らで見る母アデルは、息子の幸せを我が幸せとして感じる思いを母方祖母に手紙で伝えていました(※5)

プランストーの指導はアトリエ内での絵画技法に留まることはなく、表現者としてフィールドワークで得る感性の学びも重要視したことが特徴だと言えるでしょう。例えばプランストーは少年だったロートレックを競馬場に連れて行きました。全速力で風を切る馬と人をテーマに描く時、実際に見たことがなければ本物の表現はできないと考えたのでしょうか。当時競馬場は大人の賭け事の場というだけでなく、貴族の社交場としての役割も果たしていました。ロートレック自身、馬を間近で見る機会が少なかったわけではありません。当時のパリの街中では馬車が交通手段のメインでした。また幼少期に過ごしたボスク城では馬を飼い、彼も乗馬する機会がありました。しかし競馬場のコースを疾走する馬の群れの迫力や動的なエネルギーは、やはり現地に居てこそリアルに体感、吸収することができます。ロートレック15歳の頃の作品「シャンティイでの疾走」(油彩画, 47×58 cm, 1879年)(※絵画3)は猛烈な勢いで木々の間を駆ける馬に引かれた馬車の後部座席に、プランストーとロートレック、そして従兄のルイ・パスカルが乗っている様子が描かれたものです。シャンティイの競馬場に向かう時の光景でしょうか。

もう一つ、プランストーがロートレックを連れて行った場所で特徴的な場所がサーカス小屋です。サーカスは当時フランスで大変人気がありました。ロートレック20代前半の作品にフェルナンドサーカスを描いたものがあります。「Equestrienne (At the Cirque Fernando)」(※絵画4)は横座りした女性を背に乗せて会場内を駆け巡る白馬の姿、そして鞭を持った燕尾服の男性とおどけたポーズをとっているピエロの姿が描かれたものです。プランストーと一緒に通ったサーカス小屋でも、同じような場面を目にしていたと考えられます。競馬場の自然光の下、速さを競う馬たちの動きと対照的に、小屋内の狭い空間を照明や音楽と共に曲芸的に走り回る馬の動きは、ロートレックにまったく違った世界を教えてくれたことでしょう。ロートレックは様々な生命が放つエネルギーやその瞬間をどう表現するか、プランストーから学んだのだと言えます。

ロートレックはプランストーのことを心から慕っていました。もちろん画家としての才能や指導力の高さ、面倒見の良さも含まれるでしょうが、それと同じくらい、或いはそれ以上にロートレックの心に響いたのはプランストーの生い立ち、人間性だったのではないでしょうか。実はプランストーは身体に障害がありました。プランストーから指導を受けるようになった時期、それはロートレックが学校を休む、あるいは退学して治療を優先させるほどの身体の不調を抱えていた時期にも重なります。多くのクラスメートと自分の健康状態の違いを、そして重度の体調不良によって多くの自由な時間が奪われた事実を否が応でも意識せざるを得ない時期でもあったのです。そのような時に、身体のハンディを苦にして落ち込むのではなく、才能を活かして今という時間を存分に楽しむプランストーの生き様は少年ロートレックの心に強いインパクトを与えたのではないでしょうか。今日はルネ・プランストーについてお話を進めていこうと思います

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■ルネ・プランストーと口話法
ルネ・プランストー(René Princeteau)は1843年7月18日、フランス南西部のリブルヌで生まれました。彼は生来耳が不自由でした。両親は彼を音のある世界、社会とどうつなげていくのか、随分苦心したことでしょう。プランストーは家庭の中では口話法によってコミュニケーションを図っていました。母親が口話法を教えていたからです(※6 )。やがてInstitut National de Jeunes Sourds de Paris(フランス国立パリ聾学校)(※7)に進学し、学校教育としても口話法を学びました。とはいえ、口話法は決して容易に習得できるものではありません。

■口話法がいかに大変か(ローラン・クレールの例)
同じこの聾学校で学んだ先輩で、後に渡米してアメリカで初の聾学校を設立したローラン・クレール(※注1)の発語エピソードを知ると、その厳しさがとてもよく伝わってきます。クレールはプランストーよりも60歳程年上であり、時代の違いによる教育手法の差はもちろんあるでしょうが、聴力障害を抱える人にとって、意味を成す適切な音の連なりを発声していく大変さは、いつの時代も同じはずです。ここで少し、クレールの話をご紹介しておきたいと思います。クレールはアルファベットの文字はすべて発語でき、一、二分節の単語も上手に発語できるものもありました。しかし「ダ」と「タ」「デ」と「テ」「ド」と「ト」の区別に苦労しました。当時指導者であった神父はクレールの手を自分の喉とクレールの喉に宛てさせて発音し、彼に自分の口の中の舌の位置をよく観察させて発音を促しました。しかしクレールはなかなかうまく発音できません。怒った神父はクレールの顎を殴り、その反動のためかクレールは舌を噛んでしまいました。強い恐怖に襲われたクレールはそれから二度と発語することはなかったのでした(※8)。もちろんプランストーの通った時代には、熱心な指導のあまり暴力に至るような状況は消えていたことでしょう。そう願うところです。

■フランスで口話法が盛んだった背景
日本では京都で古河太四郎によって19世紀後半に耳の不自由なこどもたちへの教育が始まりました(※9)が、フランスではそこから1世紀遡った18世紀半ば、神父ド=レペが開いた聾学校を国家が引き継ぐ形で1791年、国立聾学校が設立されました。当時は手話教育が行われていましたが、口話法にシフトしていきました。1800年に着任した医師により、生徒達に肺結核が多いのは発話しないことで呼吸器官が発達しないためと理由付けられ、やがて発話訓練は衛生や体育訓練としての意味を持ち、1827年には学院内で必修化され、1832年には最高学年で発話訓練を集中的に教えるようになった(※10)と言われています。こうした背景もあって、たとえ耳が不自由であっても、当時フランスでは口話法が優先され、プランストーは口話法のスキルを伸ばしていったのでしょう。

■夢を諦めない ープランストー、彫刻・絵を学ぶ
プランストーの声はかすれ、しわがれ、喉の奥から絞り出すように発声していました。それは幾らか人工的に聞こえる部分があっても、相手には十分意味が伝わるものでした。そしてプランストーは相手の話を聞く時、口唇の動きを読み取って、言葉を理解していました。プランストーは聾学校を卒業後、当初彫刻家を志し、ボルドーで彫刻を学びましたが、パリのエコール・デ・ボザール(国立高等美術学校)に進学してからは絵画を学び、表現領域を広げていきました(※11)。このような流れを見る上でも、プランストーは耳の不自由さを理由に自分の希望する道を諦めてはいないことがよく伝わってきます。

ロートレックは生前濃化異骨症と診断されていたわけではありませんが、頻発する体調不良や骨折のしやすさ、そして骨折後の治癒過程の遅延等を通して、自身の身体に起こっている他者との違いを十分自覚していたことでしょう。退学、長期入院、復学ができない、そうした状況で生来のハンディキャップがありながらも、才能を存分に伸ばし、そこから生計を立てていたプランストーに対して、強く尊敬の念を抱いていたと考えられます。彼を目指すべきロールモデルのように意識し、自分も追随しようと励んだことは想像に難くありません。

■おなかで音楽を聴く ー舞踏会にも参加
プランストーは乗馬もうまく、社交界にも顔を出していました。長身でおしゃれにも気を配り、いつもフロックコートを身にまとい、シルクハットをかぶっているような人でした。舞踏会に出かけると「おなかで音楽を聴くんだ」と言っていました(※12)。プランストーにとっては物心をついた時には既にそのようにして音を感じ取っていたのであり、それが彼の知る音の世界でもあるのですから、健聴者の感じる音楽と比較して、そこに優劣をつける必要等ありませんね。自分なりに音楽を楽しみ、そこから派生する人の行動や場の雰囲気の楽しさを自分も分かち合う、そうしたシンプルな世界観だったのでしょう。耳が不自由な人が舞踏会に行って楽しめるのだろうか、と当時プランストーに尋ねたら、きっと「そんな愚問は健聴者の発想だ」と一笑に付されていたかもしれませんね。

おしゃれに気を配って舞踏会に出掛け、そこで友好関係を深め、人脈を広げていくプランストーの姿は、ロートレックにとってどれほど眩しく、勇ましく、心強く映ったことでしょう。ロートレックはプランストーに自分の絵を描いてもらうことをとても楽しみにしており、その絵を宝物にしていました。憧れの有名な画家に自分の絵を描いてもらう、その光栄さは胸躍るものですね。その喜びの様子は当時母アデルや父方伯父オドンの手紙の中でも綴られているほどでした。(※13)(※14)。もちろんロートレックにとって宝物はプランストーの描く絵に留まらず、彼と共に過ごした時間や経験、学び、そのすべてだったはずです。

■健聴者へ指導を行う ー求められる自分と期待に応える自分
プランストーは乗馬に留まらず馬術競技、騎馬狩猟にも長け、その分野の絵画を得意にしていましたから、乗馬と芸術を愛する人々から一目置かれることは当然のことでしょう。プランストーは5-6名のスポーツを愛する富裕層の成人グループから乞われて絵画指導を行っていました(※15)。生徒の中の一人がロートレックの父アルフォンスでもありました。プランストーの出身地リブルヌの美術館にはアマチュア騎手たちが障害を飛び越そうとする障害馬術を描いたプランストーの作品があり、その中にアルフォンスの姿が描かれていると言われています(※16)。その他登場する騎手も、このグループの仲間だったのかもしれません。邦題「夜警」(※絵画5)で知られる17世紀のオランダの巨匠レンブラント・ファン・レインの作品は明暗が大変印象的な絵ですが、市民警備隊の集団肖像画と言われています。正面静止像ではなくそれぞれの登場人物に固有の動きがあります。プランストーの障害馬術を描いた作品も、そうしたグループの集団肖像画的なものだったのかもしれませんね。

さて技法の指導の場面で口頭説明がない状態であったとしても、手本となる描き方を丁寧に実演することで、生徒側はそれを見ながら学び得る部分は多いと考えられます。しかしながら生徒が描きかけの作品に対して、ここはこんな風にした方が良いと丁寧にアドバイスをするには、やはり言葉を用いたコミュニケーションは欠かせません。また絵画のような芸術分野の指導上、繊細で抽象的な感覚のフィードバックを行う時、真意が伝わるように一層言葉を重ねる場面も出てくることでしょう。耳の聞こえないプランストーが物怖じすることなく、健聴者に対して口話で堂々と絵画指導を行っている姿を想像すると、ロートレックでなくても非常に眩しく思えます。また父アルフォンスは自由人的な要素が強く、趣味の狩猟を優先させるために妻や息子と離れて暮らす時期もあった人です。その父が教えを乞う師としてプランストーを選んでいた事実は、ロートレックの心の中でプランストーに対する敬意を一層加速させることになったのではないでしょうか。

プランストーがなぜこんなにも社会の中に溶け込み、「自分」なるものを堂々と発揮することができたのでしょうか。そのヒントとなる言葉が同じフランス出身の作家ヴィクトル・ユーゴーの言葉の中にありました。
1845年11月25日、ですからプランストーが2歳の頃、ユーゴーがフェルディナン・ベルティエ(※注2)に贈ったと伝わる言葉が非常に合致すると思うのでここに取り上げてみます。ベルティエもまたプランストーの同窓生・大先輩にあたる人です。

聞こうとする心があるなら、耳が聞こえなくても
何の問題があるのですか。本当の「聾」、
癒しがたい「聾」とは、
聞こうとしない閉ざされた心を言うのです。(※17)

プランストーの聞こうとする心、開かれた心は彼の大いなる強みとなり、才能、能力を存分に活かし、それを世に知らしめることができたのだと思います。そして彼自身の人生だけでなく、後に指導者として今度はロートレックという別個の人生を輝かせるきっかけを生み出すことにも繋がったと言えるのではないでしょうか。

参照絵画:
絵画1-
RKD – Netherlands Institute for Art History(オランダ美術史研究所)ウェブサイト
Equestrian portrait of George Washington
René Princeteau,
1875, 油彩画, 369x296cm
 (個人蔵)
絵画2- オクシタニー美術館協会 Occitanie Musées ウェブサイト
Musée Toulouse-Lautrec
TROIS CAVALIERS : TOULOUSE-LAUTREC ENTRE SON PÈRE ET RENÉ
RENÉ PRINCETEAU
 (フランス・トゥールーズ・ロートレック美術館蔵)
絵画3- 「シャンティイでの疾走」
1879年, 油彩画, 47×58 cm
曽根元吉訳, フィリップ・ユイスマン, M.G.ドルチュ共著[他](1965)『ロートレックによるロートレック』美術出版社, pp.34-35
絵画4-
シカゴ美術館ウェブサイト
Equestrienne (At the Cirque Fernando)
Henri de Toulouse-Lautrec,

1887-1888, 油彩画, 100.3x161.3cm
 (アメリカ・シカゴ美術館蔵)
絵画5- アムステルダム国立美術館ウェブサイト
The Night Watch
Rembrandt van Rijn
1642, 油彩画, 379.5cm × 453.5cm
(オランダ・アムステルダム国立美術館蔵)
 
引用文献・ウェブサイト:
※1 Lana-Peaceエッセイ 7点(本ページ末尾リンク参照)
※2 アンリ・ペリュショ著, 千葉順訳(1979)『ロートレックの生涯』講談社, p.35
※3 Julia Frey(1994) Toulouse-Lautrec : a life, New York, Viking Penguin, p.66
※4 前掲書3, p.118
※5 前掲書3, p.116
母アデルから母方祖母ルイーズへの手紙, 1881/4/29
※6 前掲書2, p.35
※7 Wikipedia「René Princeteau」
※8 ハーラン・レイン著, 斉藤 渡訳, 前田 浩監修/解説(2018)『手話の歴史 上』築地書館, pp. 31-32
※9 Lana-Peaceエッセイ「病気と一緒に生きていくこと」
教育によって開花する才能
我が国初の本格的な特別支援教育施設 京都盲唖院と学生の絵画作品より考えるー聾唖教育に尽力した古河太四郎ー
長原恵子
※10 佐野直子(2006)「フランスのろう教育ーその歴史と現状ー」『言語政策』2, pp.59-60
※11 オクシタニー美術館協会 Occitanie Musées ウェブサイト「RENÉ PRINCETEAU」 
※12 前掲書2, p.35
※13 前掲書3, p.56
母アデルから父方祖母ガブリエルへの手紙, 1873/12/4
※14 前掲書3, pp.56-57
父方伯父オドンから父方祖母ガブリエルへの手紙, 1874/2/9
※15 前掲書2, pp.36-37
※16 前掲書2, p.37
※17 前掲書8, エピグラフより
   
注釈:
※注1 ローラン・クレール(1785/12/26〜1869/7/18)は1歳の時に
椅子から暖炉に転落し、右頬に跡が残る重度の火傷を負いました。彼が生来耳が不自由だったのか不明ですが、彼の家族はこの転落事故の受傷によって聴覚と嗅覚を失ったと考えています。当時、二日に一度、耳に薬液を注入する治療を二週間続けましたが、効果は見られませんでした。彼は正式な手話ではなく、家族間で通じるパントマイムのようなホームサインを使っていましたが、それが十分活用されていたわけではなかったようです。クレールの父は当時、王に認められた公証人で複数の事務所を構え、村長職にも従事するほどの知識人でしたが、ホームサインに対して興味さえも示さずにいました。彼は息子の障害を受容し難かったのでした。母はそういうわけではなかったのですが、ホームサインを覚えることができずにいました。兄弟姉妹とはホームサインでコミュニケーションをとっていたことは、家庭内で唯一の救いだったと言えるでしょう。しかし耳の障害が理由で地元の学校で教育を受けることができなかったクレールは、川の水を何時間も眺めていたり、家畜の世話や放牧を手伝う等で過ごしていました。やがて12歳の頃ようやくパリの国立聾学校に就学することができました(※前掲書8, pp.20-21)
※注2 フェルディナン・ベルティエ(1803/9/30〜1886/7/12)は生来耳が不自由でした。ベルティエはパリの国立聾学校でで学んだ後、助手になり、そこから最終的に主任教授になりその生涯をかけて聾教育に尽力しました。フランス語、ラテン語、ギリシャ語に通じ、聾者のための法律改革や教育等に影響を及ぼした社会団体を組織し、多くの著作を残した人です(※ハーラン・レイン編, 石村多門訳(2000)『聾の経験 18世紀における手話の「発見」』東京電機大学出版局, p.19)
 

たとえ身体にハンディがあろうとも、そこで限界を定めてしまうのは環境や社会ではなく、自分自身なのです。欠けた部分を嘆き他を羨むのではなく、今ある能力を最大限に活かしていく。それがいつかビリヤードのキューで突かれた球の如く、新たな方向へ進み、良き影響を拡散していくのだと思います。

2022/10/31  長原恵子
 
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