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家族の気持ちが行き詰まった時

これまでフランスの画家アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレックについて本人の視点で5回取り上げてきましたが(※1)、今日は彼を支えた両親、特に母親にフォーカスを当てて考えてみたいと思います。

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ロートレックの母アデル・タピエ・ド・セレーランがアルフォンス・ド・トゥールーズ=ロートレック=モンファの元に嫁いだのは21歳の春のことでした。アルフォンスの母ガブリエルはアデルの母ルイーズの姉であり、ロートレックの両親はいとこ同士として幼い頃からよく知っていました。親族の中でアルフォンスは「颯爽」、アデルは「天使」と表現されていました(※2)が、翌年の秋に第一子となるアンリ(以下ロートレック)が誕生後、それぞれが息子と築いた親子関係を振り返ってみると、実に言い得て妙な表現とも言えます。

■親の責任と葛藤 ー治療の選択 1 板挟みー
ロートレックは絵を描くだけでなく、屋外での遊びや動物のふれあいなども大好きな明朗快活なこどもでしたが、足の痛みや転びやすさ等、足にまつわる問題がありました。またなかなか身体が大きくならないことや病弱さも悩みの種でした。彼の患っていた病気として死後60年近く経ってから「濃化異骨症」(※3)の名が挙がりました。病気の仕組み、全体像が明らかであれば適切な治療を施すことができますが、それは今だから言えることです。当時は次々起こった症状に対処療法を施すしかなく、あまり効果が認められないものもあり、家族の心労は絶えなかったのでした。彼は学童期の頃、足以外にもひどい頭痛、歯痛、副鼻腔炎等にも悩まされました。骨格の発達と内部器官等の発達とのアンバランスによって引き起こされたものだったのでしょうか。彼のそうした痛みに対して心因性の不定愁訴とみなさず、そのつど疼痛緩和の治療が行われていたことは、幸いだったと言えます。

彼の体力増進、成長促進を期待して、小児期から幾度も行われた治療がありました。それは温泉療法です。19世紀後半のフランスでは入浴による血行促進や温泉成分の経皮吸収による健康増進効果を求め、湯治は大変人気がありました。こどものうちはまだ正しい適切な判断ができないため、様々な治療の可能性を求め、選択する役割は親が担っています。ロートレック家では母アデルが湯治に対する期待を強く寄せ、頻繁に息子を湯治場各地に連れていきました。彼らが生活拠点として多くの時間を過ごしたボスク城はフランスの内陸部に位置しますが、避暑、避寒も兼ねてアデルは山あいの温泉やニースの海等で息子と長期滞在を重ねていました。その他足の治療のために牽引、電気ブラシ等の物理療法も行われ、ハーブ薬の大量塗布で抗炎症・鎮痛を図ることもありました。小児期の足の痛みに対し一過性の「成長痛」、あるいは神経系の問題と診断される場合もありました。両親は家族皆がお世話になっていたかかりつけ医に相談するだけでなく、足の施術で定評のある医師や温泉療養地の医師の診察も受け、時には親族の医師にセカンドオピニオンを求めることもありました。そうした治療に関する手配一切はアデルが行っていました。

治療方針の選択過程と言っても、両親が常に同じ方向を向いているわけではありません。医師同士、あるいは医師と家族との間でも相違が常に付きまとい、アデルは随分神経をすり減らしてきました。体格も大きく健康であったアルフォンスは、医師の治療指示に対して懐疑的な目を向けることが多くありました。息子の体力、健康のためには屋外でのびのびと過ごすことが一番であり、甘やかしすぎることで、かえって病状の悪化を招くと考えていたのです。その最たる例はロートレックが13歳の春、アルフォンスが自身の母ガブリエルに郵送した治療の自論です。ピレネー山脈の温泉地の医師から息子に水中運動を処方されていた頃、期待するほどの回復がないことに彼は強い苛立ちを感じていました。その思いは「理に適った考察」と称した息子の健康問題に関する自論を書き上げるに至ったのです。湿度が高く、気温の高低差が極端な山間部よりも、広々と開放的で新鮮な空気の海辺に出かけ、楽しく健康的に身体を動かし、魚の骨を使った料理をしっかり食べさせた方が、よほど息子の身体のためになると考えていたのでした(※4)

しかしアルフォンスは治療を全否定していたわけではありません。彼なりに納得がいくものには協力的でした。息子の一度目の骨折の際、患部から膝下までしっかり固定する装具が必要になった時、彼は地元のかかりつけ医と一緒に二日以上時間をかけて組み立て、パッドやストラップの調整等を入念に行いました(※5)

後年になって彼は、実は息子が遺伝性の病気を抱えていたのでは?と考えていたことを明らかにしました(※6)。疑っていたけれどもそれを直視し、認めるのは怖かったのかもしれません。
彼は自分と医師の見解が相違しても、結局は医師の判断を支持する妻の選択を優先しました。そのようにしてロートレックの治療は行われてきたのでした。

■親の責任と葛藤 ー治療の選択 2 退院と再治療ー
1875年1月、パリ近郊のヴェリエ医師の元でロートレックは足の激痛に対する入院治療を受け始めました。家族は大いに期待を寄せ、その年の夏には退院できると聞いていました。しかしながら夏になっても回復が得られず、秋には治療自体への不信感と長期入院による息子の精神的悪影響の心配から、アルフォンスは息子の退院を希望するようになりました。しかしながら代わりに新たな治療法が見つけていたわけではありません。アデルはどうすれば良いのか悩む気持ちを母親に打ち明けていました(※7)。結局、そのまま入院治療は継続されましたが、医師への信頼を再構築することもできないまま、家族は翌年1876年6月末に強行退院へと踏み切ったのです。

ロートレックはようやく訪れた自由な生活を大喜びで満喫しましたが、親にとってはこれからが正念場です。いろいろな治療法を求めてトライしました。しかし痛みが引いては再び出てくる状態は、親の心を疲弊させていきました。次第にアデルは病状悪化を予防するのは自分の責任、とばかりに息子の行動を制限するようになりました。湿度が高い日は体調を崩しやすいため、外出禁止にしたのです。息子を突然襲う痛みには手を焼き、日に日に悪化する息子の歩行への家族の支援も、もう限界が近づいていました。そしてついにアデルは息子の治療を再びヴェリエ医師の手に委ねることを決断したのです。退院してから再治療依頼を決めるまでの約8カ月間、それは家族の奮闘と忍耐と苦悩の期間でもありました。ただし今回は入院ではなく、滞在先のホテルへの訪問治療を選びました。直ちに歩行禁止とされ施術が開始されましたが、ロートレックは絵を描いたり、本を読んだり、友人とのおしゃべりでうまく乗り切っていました。それは傍で見ているアデルにとっても安堵の一つになり得たことでしょう。治療再開でほっとしつつも、毎朝の医師の来訪に合わせて彼女の予定も縛られるようになり、息子よりも自分の方が負担が大きく、大変だとアデルは感じるようになっていました(※8)。弱音を吐ける相手は実母だけだったのでした。

■新たな出会いと成長機会 ー自己効力感ー
ロートレックの治療の選択自体とは別に、治療に伴う様々な変化も親に影響を及ぼすことになりました。その一つが転々とした生活環境と親の孤独です。ロートレックの主な生活拠点はパリから500kmほど下った南仏のボスク城でしたが、通学や専門治療のためにパリのホテルを定宿にしたり、国内の様々な温泉・療養地を暮らしの場としていました。ロートレックの育児はアデルに任され、転地療養の際は必ず彼女が同行していたことから、彼女の生活は息子の事情に大きく左右されていました。ホームグラウンドから離れた生活で気になることの一つは、身近な親しい人々との日常的な行き来が途切れてしまうことです。当時は電話の原理は見つかっていても社会への普及自体はまだ程遠い時代でしたから、頼りになるのは郵便です。アデルは親族宛てに相当な数の手紙を送っていました。孤独や気持ちの揺らぎを何とか収めていくには、手紙のやり取りが大きな役割を果たしていたと言えます。

そうした中、新たな環境で生まれた人間関係が思わぬ良い効果をもたらすこともありました。息子の英語の家庭教師です。就学でパリに引っ越した際、母アデルはアイルランド人女性のブレインを息子の家庭教師として雇いました。それは学校での英語教育に息子が遅れを取らないように、という理由からです。そこで彼女も一緒に英語を学ぶようになったのは、良い流れの始まりになりました。親子共々英語の能力が伸び、アデルの生活にも彩りがもたらされました。元々ラテン語ができる聡明な女性ではありましたが、英語の本を楽しく読めるようになり、また滞在先のホテルの外国人宿泊客と英語で会話が弾むほどに上達したのでした。学習成果の手応えを自分でも実感できることで、増々気持ちもアップしたことでしょう。息子中心の生活、限られた状況の中で手にすることのできた成果と変化は、自己効力感として彼女に良い影響をもたらしたと考えられます。

ブレインは家庭教師として有能だけでなく、人としての優しさも持ち合わせた人でした。郊外に出かけた折、アデルのために野の花で作った花束を持ち帰って渡すような気遣いもありましたから、アデルはきっと心を許せたのでしょう。小さなこどもを忙しく育てている間「大人の人間同士、大人の会話がしたい」と渇望する気持ちが湧くこともあります。ブレインはそうした役回りも十分果たしていたのでしょう。ロートレックが成人した後もアデルの個人秘書のような仕事も行っていました。

■自分を取り戻すには ー強制終了と再生ー
1875年秋、息子の入院治療をやめさせようとアルフォンスが言い出した少し前、実はアデルにも危機的状況が訪れていました。彼女は年明けから足繁く面会に通い続け、息子の気持ちを支えてきましたが、当初退院目途とされた8月末は彼女にとっても大きなゴールだったのです。その時がやってきても息子の回復は十分得られず、治療をやめて家に帰るのなら、海辺の温泉地に移って療養することが望ましいとヴェリエ医師は告げました。信頼していた親族のレイモン医師も同様の意見であると知り、アデルは落胆しました。この先も息子を支え続ける未来の自分像が描けない、いつまでこれが続くのか……そんな絶望感が押し寄せてきたのかもしれません。自分が潰れてしまう前に何とかしよう、そのためにアデルは一大決心をしました。息子を入院させたまま、自分は一旦実家に帰ろうと思ったのです。ストレスフルな状況を背負い込み続けることに、アデルは自信が持てなかったのでしょう。それは決して責任放棄ではありません。三人家族と言ってもアルフォンスはこれまで趣味の狩りを優先し、そこに合わせて暮らしの場を選び、妻子と離れて暮らしていたこともありました。常に息子のそばで生活を支え続けたのはアデルでした。彼女には小休止が必要だったのです。

息子と暫く離ればなれになるのは辛いけれども早く旅に出たい、はやる気持ちを抑えることができなかったアデルは、その年の9月に出立しました。母の決断に対し、ロートレックは殊勝にも理解を示しました。ママだって自分の母親に会いたいはずだ……と賛同したのです(※9)
その頃ロートレックは食事もしっかりもとれるようになっていました。自分の足でしっかりと1時間半ほど歩けるようになっていました。この状態ならば自分は一時的に離れても大丈夫だろうと思ったのでしょう。夫に息子の世話を頼むとアデルは一人でボスク城と実家のセレーランに向かうため、パリを後にしました。

ストレスフルな環境に置かれた場合、可能であるならば物理的に一旦距離を置くことはとても大切なことです。その場に居続けることで自分のネガティブな方向への思考、感情を抑止することができなくなるからです。物理的にその場から離れることはできない場合、思考や感情を一時中止できるような機会を得るだけでも効果が期待できることでしょう。誰かと話す、興味のあることに時間を費やし没頭する、少し一人散歩に出かけてみる等、自分がストレスフルだと思う膠着した状況から一歩外へ踏み出す方法はいろいろあります。アデルは心の滋養を得て気持ちを立て直した後、晩秋パリの息子の元に戻ってきました。

■良いこと探し・良いこと実践
ヴェリエの訪問治療が軌道に乗り始めたと思われた1877年春、ロートレックは重度の中耳炎を発症し、聴力回復まで6週間要しました。一難去ってまた一難、それでもアデルはくじけませんでした。当時自分の母親へ書き送った手紙の中にはアデルが「良いこと探し」をしていた様子が見てとれます。かつてロートレックは大量の冷や汗をかくほどすねに重度の痛みを感じていました。その痛みはヴェリエの訪問治療のおかげで消失していたことにアデルは注目していたのです(※10)。悪いことが起こるとそちらばかりに気を取られてしまいますが、そこでどんな些細な変化であっても改善点が見つけられたなら、落ち込む感情の流れを一時食い止めることができます。そうした流れを自分の中で意識的に設けることはとても大事ですね。

しかし更にロートレクに試練が襲い掛かりました。これまでひどい頭痛に悩まされていたことがありましたが、5月中旬になるとその頭痛は朝4時に泣きながら目覚めるほどの激痛に増悪していたのです。途方に暮れたアデルでしたが、息子のために何とかしようと湯治場バレージュの泉質に望みを託しました。なぜなら当時その硫黄泉は様々な病気に効くと信じられ、この湯を飲んだり浴びたりすることで奇跡的な治癒を経験したとクチコミで広がっていたからです。アデルは息子を連れて汽車と馬車を乗り継ぎ、パリから2日もかけてバレージュに向かいました。良いと聞いたらとにかく試してみる、どんなに大変であっても。「良いこと探し」ができる心理状態においては、その先の「良いこと実践」に対する感情的なハードルが下がっているのだと言えます。それは大いなるチャンスでもあります。次々難題が起こっても良いことを探して、気持ちを充たし、行動に移す。そのサイクルが強固なものに変わると、ストレスフルな状況でも踏ん張ることができるようにます。そこで再び蘇る「自己効力感」によってアデルは自分自身を信じることができるようになったのでしょう。

 
引用文献・ウェブサイト一覧:
※1 Lana-Peaceエッセイ 長原恵子
1-逆境の中で伸びやかに成長していくには
2- 療養中の出会いで得た内省と成長
3- 心を鼓舞する選択と行動が生み出す新たな力
4- 親友との関わりで気付いた自分の幸せ - 共同体感覚
5- 弱点を昇華させ飛躍へ変える -器官劣等性が及ぼす影響
※2 Julia Frey(1994) Toulouse-Lautrec : a life, New York, Viking Penguin, p.11
※3 Maroteaux P, Lamy M.(1965)THE MALADY OF TOULOUSE-LAUTREC, JAMA, Mar 1;191, pp.715-717
※4 前掲書2, p.84
1978/3/25と考えられている父アルフォンスから父方祖母ガブリエルへの手紙
※5 前掲書2, p.89,
1878/5/20 母アデルから叔母(アルフォンスの妹)アリックスへの手紙
※6 前掲書2, p.76
※7 前掲書2, p.65,
1875/11/5 母アデルから母方祖母ルイーズへの手紙
※8 前掲書2, pp.74-75,
1877/3/11 母アデルから母方祖母ルイーズへの手紙
※9
前掲書2, p.64,
1875/9/10  母アデルから母方祖母ルイーズへの手紙
※10
前掲書2, p.76,
1877/4/2  母アデルから母方祖母ルイーズへの手紙
 
 
こどもの治療中、先が見えない渦中で親ももがき苦しい時、まずは一時そこから距離を置き、充電しましょう。それは事態の増悪を回避するためにも賢明な選択であり、自己効力感を呼び戻すための第一歩になります。
2022/8/29 長原恵子
 
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<濃化異骨症と共に生きたアンリ・ド・トゥールーズ=ロートレック>
1- 逆境の中で伸びやかに成長していくには
2- 療養中の出会いで得た内省と成長
3- 心を鼓舞する選択と行動が生み出す新たな力
4- 親友との関わりで気付いた自分の幸せ - 共同体感覚 -
5- 弱点を昇華させ飛躍へ変える -器官劣等性が及ぼす影響-
<アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレックの親>
6- 先が見えない渦中で自己効力感を取り戻す時 ※本ページ
7- 自分を信じられるということは
<アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレックの師匠>
8-限られた能力に捕らわれない生き方 - おなかで音楽を聴く画家 ルネ・プランストー