|
|
|
悲しみで心の中がふさがった時 |
娘の死後, 娘を誇りに思って生きていく父の覚悟 |
これまで鳥取西館新田藩
第五代藩主池田定常(松平冠山)公の十六女・露姫について取り上げてきました。今日は第8回目です。露姫の死は全国の多くの人々に知られることとなり、非常に大きな反響を巻き起こすことになりました。そしてその人々の思いを礎として、父冠山公が新たに始めた取り組みは、自身の心を癒していく過程にもなりました。その詳細について今日は皆さんと一緒に考えていきたいと思います。情報の原典は前回と同様、冠山公の命を受けた腹心の臣下
服部脩蔵によって編まれた露姫の生涯記「むとせの夢」(※1)となります。
|
---*---*---*--- |
平成31(2019)年、露姫ゆかりの品々が東京都台東区の指定区民文化財(台東区指定有形文化財)文化財として認定されました(※2, 3)。露姫の死を悼む『玉露童女追悼集』(29巻)、露姫が母宛てに書いた「玉露童女書状」(1幅)、そして露姫の在りし日の姿を復した木造の玉露童女坐像(1体)です。まるで暗号のように大切なメッセージが隠されていた書状についてはこちら(※4)で触れましたが、今日は追悼集と坐像について遺された親の気持ちから考えていきたいと思います。
|
■『玉露童女追悼集』
『玉露童女追悼集』とは露姫の死を悼む大変多くの人々から寄せられた作品を父冠山公が巻子仕立てにしたものです。その数、全30巻、2つの杉の箱に15巻ずつ収められて浅草寺に奉納されました。現在はそのうち29巻が伝わっています。箱の中に入っていた書付から、明治16(1883)年7月時点には第7巻が紛失していたことが判明した、と考えられます(※5)。浅草寺の寺宝として保管される過程で、湿気や害虫、カビ等から巻子を守るために行われたであろう曝涼(ばくりょう:いわゆる虫干し)等の際、何かのトラブルが起こったのではないかと思います。
人々が哀悼の意を表するために取った形は実に様々でした。和歌、詩文、絵画、手紙等、それらの数は何と合計1,600点余りにも上ります(※6)。中には1人で複数の作である場合もありましたから、露姫の人生を尊び、遺された家族の悲しみに思いを寄せた人の数は1,550人余りですが、現存していない第7巻分を総計すればおおよそ1,600名だったろうと推計されています(※7)。200年も前の時代、一人の幼女を追悼するためにこれほど多くの人々が行動を起こし、その証が今の世にもこうして形として残り伝わっている例は、恐らく国内・海外に目を向けても類を見ないのではないでしょうか。形も大きさも異なる作品ですが、丁寧に1点ずつ台紙に貼り付けられ巻子に仕立てられました。巻子の長さについては第27巻の実測値が公表されていますが、こちら何と11メートルもあったそうです(※8)。単純計算したとすれば、和室の部屋の済から巻子を広げたとして、畳の長辺を6枚横並びにしても全巻開ききるにはまだ足りない、それほどの長さと言えば想像がつくでしょうか。第27巻は現在浅草寺から製本化されている『玉露童女追悼集 5』に収載されていますので、送り主の名を数えてみたところ、68名分ありました。その一人一人の思いが長い時を経てもしみじみと伝わってくるようです。
『玉露童女追悼集』が浅草寺へ奉納された時期は文政7、8(1824-1825)年の頃(※9)とされています。これは昭和63(1988)年、浅草寺の本堂落慶30周年を記念し、巻子の第1巻から5巻の写真と翻刻文が冊子の形で『玉露童女追悼集 1』にまとめられた折の情報となります。その後、現存する巻子はすべて『玉露童女追悼集』のシリーズとして製本化されました。平成8(1996)年にいよいよ最後の第25巻から30巻分が『玉露童女追悼集 5』として刊行され、末尾を飾る儒学者・佐藤一斎の弔意の書を見ると文政乙酉9月、と日付が記されていました。すなわち一斎が文政8(1825)年9月に書いたものとなります。そのため全作品が巻子に仕立てられた後、浅草寺に奉納されたのは少なくとも文政8年9月以降だろうと私は思います。
佐藤一斎は父冠山公が若き頃から晩年にかけて長く交流を続けていた友人です。博識な二人の付き合いは何とも高尚であった様子が一斎の日記から知ることができます。例えば文化元(1804)年の1月27日、3月17日条にて一斎は「赴陶白堂対読魯論」と記していますが、これは一斎が冠山公の書斎・陶白堂を訪れ、魯国に伝わっていた論語を読んでいた、ということです(※10)。娘を亡くした友人のために一斎がしたためた書は流れるような草書で判読が難しいのですが、浅草寺刊行の『玉露童女追悼集 5』の翻刻版を参照してみますと「公女は乃ち神なり」(※11)と記している部分がありました。冠山邸を何度か訪れた中で、露姫とも面識があったでしょうから、高名な儒学者の言葉は単なる口先の美辞麗句・称賛の類ではなく、露姫の育ちが本当に大変奇特であったことの表れだと思います。
|
追悼の作品の中には露姫の素晴らしさを讃え、短命を惜しむものだけでなく、子を亡くした親の悲しみに心を寄せるメッセージが書かれたものもありました。それはきっと父冠山公の心を包み込むような働きをもたらしたと考えられます。しかしながら冠山公は巻子をずっと手元に置いて眺めるのではなく、浅草寺に奉納しようと決めました。その理由は一体何だったのでしょうか。それはただひたすら、娘の冥福を願う一心に尽きるのだと思います。生前、露姫は観音様への信心を特に深く持ち、御本尊が聖観世音菩薩である浅草寺に何度も参拝していました。露姫の葬送の列が江戸の菩提寺であった牛島の弘福寺墓所へと向かう際、いかようにでも経路をとれる状況でしたが、冠山公はわざわざ浅草寺の前を通るルートを指示しました。それは雷門の前で葬送の列を止め、臣下が代理参拝している間、露姫が棺の中から観音様へ最後の御挨拶ができますようにという親心によるものです。露姫が亡くなって数年経っても、娘の死出の旅路の行く末を案じる気持ちは変わらなかったのでしょう。「娘はどれほど善良な子であったのか、それはこんなにも多くの人々が心を寄せてくれたことからもおわかりいただけますよね。ですからどうか娘が極楽浄土へ往生できるよう、観音様のお力添えをお願いしたいのです。」冠山公はそういう気持ちだったのだと思います。
|
■木造玉露童女坐像
木造玉露童女坐像は、文政11(1828)年2月7日に冠山公が浅草寺に奉納したもので、本堂内の愛染明王脇に安置されたことが当時の『浅草寺日記』に残されているそうです(※12)。『江戸名所図会』16によるとは本堂の本尊 聖観世音菩薩の左脇壇に愛染明王像が置かれていたことが記されています(※13)。こちら天保5-7(1834-1836)年に刊行されたもので坐像奉納時期とは6、8年程度しか差異はありませんから、奉納当時の愛染明王の配置は『江戸名所図会』と同様であったと考えて差し支えないかと思います。令和5(2023)年現在、浅草寺のウェブサイトによると本堂内の内陣中央に御本尊を奉安する御宮殿(ごくうでん)があり、内陣左奥に脇侍として愛染明王が祀られています(※14)。御本尊は秘仏ですからそのお膝元にというわけにはいきませんが、脇侍である愛染明王像の傍に露姫の坐像が置かれたことは、可能な限りの最上の待遇で坐像が受け入れられたと言えます。冠山公もどんなに嬉しかったことでしょう。
冠山公と浅草寺との繋がりは深く、文化10(1813)に冠山公は『浅草寺志』附図あわせて全19巻の編著を手掛けていました(※15)。ただ浅草寺側としては、こうした事情が本堂への亡き幼な子の坐像設置を許可した理由ではなかったはずです。これは個人的な推測の域を出ませんが、露姫が人間界の常識的な童女の発達とは思えない立派な言動を繰り返していたことで、僧侶らの間では仏の化身と認識されていたからだろうと思います。露姫の生前、鉄砲洲の冠山邸を訪れた泉岳寺の貞鈞和尚は露姫に疳の虫が起こらないようにと加持祈祷を行ったことがありました。その際、露姫が自分のおもちゃを持参して、貞鈞和尚にお礼として渡した微笑ましいエピソードが伝わっています(※16)。その貞鈞和尚は露姫逝去の翌年3月に書き起こした追悼文で「救世薩埵のふかき由縁の侍りてかりに露の身をあらハしたまふにやといと尊くおほへ侍りて」と表現していました(※17)。救世薩埵(くぜさった)とは聖(しょう)観音、救世観音のことであり(※18,
19)、まさに浅草寺の御本尊のことです。仏の道に深く携わる立場からも、露姫はいかに尊い存在と感じられていたかがよくわかります。
冠山公は『玉露童女追悼集』30巻を奉納してから、数年経て坐像を奉納したということからも「極楽浄土への娘の往生を確かなものにしたい」その思いが、ずっと変わらず続いていたと伺い知ることができます。彫刻師に依頼した際「娘はこんな風だったから、もうちょっとこの辺りは削ってほしい、ここは丸みを残してほしい」等と細かくお願いしながら、面影を再現しようとしたことでしょう。3年も経てばもう少しお姉さん風に成長しているかもしれないなあ、いや、やっぱり露姫は心の中でずっとあの頃のままだ等と自問自答することもあったかもしれません。
|
■仏様の御加護ー火災被害を免れたゆかりの品々
冠山公が露姫ゆかりの品々を浅草寺へ奉納したこと自体、それは露姫、あるいは仏様の導きだったのではないか……そう思わずにいられないことが起こりました。露姫の死から7年後、冠山公は居宅を鉄砲洲の上屋敷(現在の東京都中央区・聖路加ガーデン辺り)から亀高村の下屋敷(江東区北砂・亀高保育園の辺り)に移さなければならないほどの火災被害に遭ったからです。文政12(1829)3月21日、文政の大火、己丑火事(つちのとうしのかじ)、それは後の世に江戸の三大火事(明暦の大火、明和の大火、文化の大火)と呼ばれるものには含まれてはいないものの、江戸の町に甚大な被害をもたらしました。神田佐久間町の材木小屋から出火し、強風によって延焼し、被害は神田のほか日本橋や京橋、芝のあたりまで広がり、罹災は37万軒にも及んだのです(※20)。現在の秋葉原駅周辺で上がった火の手は3kmほど遠く離れた冠山邸さえも被災させるほどの勢いでした。
この火事により、冠山公は家屋や著書や蔵書の大半を失うことになりました。幸い、冠山公の命が無事だったのは当日、本所五ッ目(現在の江東区大島)にあった黄檗宗 羅漢寺にて鉄眼禅師の開山忌法会に参詣していたからでした(※21)。羅漢寺は火元の神田佐久間町からは隅田川によって大きく隔たれ、東方に位置していたことから、被災を免れたのでしょう。もしも全国から寄せられた追悼の品々が巻子として浅草寺に奉納されていなければ、そのすべてはすっかり灰燼に帰していたはずです。 |
■なぜ多くの人の支持を得たのか
それにしてもなぜ、1,600名余りの多くの人々が追悼の作を遺族に送る大きな動きが起こったのでしょうか。幼い子が疱瘡(天然痘)によってあまりにも早く人生を奪われてしまったから? 確かにそれも1つでしょうが、当時それは決して珍しいことではありませんでした。数え年僅か6歳の女児の言動が、神仏の化身とも思われるほど立派で稀有であったことに感動し、病魔によって人生を早々に終えなければならなかったことへの憤り、無念に突き動かされたからだろうと思います。そして「情報が広く伝わったこと」も欠かせない柱の部分だと言えます。さてどのような情報伝達の手段が有効だったのでしょうか。
1- 露姫の遺筆の木版印刷
既にこちら(※22)で取り上げていますので、詳しくはそちらを参照していただきたいのですが、露姫の遺筆の木版刷りが各地の霊地や寺に送られていました(※23)。そこで僧侶が檀家へ講話等の際に紹介することで、人々の間でも話がどんどん広がっていったと考えられます。お酒が好きだった父の身体を気遣い、母や兄には短き人生を終えていく寂しさを、そして侍女には何年経っても私のことを忘れないでと綴った露姫の遺筆は、人の心を大きく揺さぶりました。訪れた先で遺筆の存在を知り、あまりに感動してそれを写し書きして持って帰った例等も知られています(※24)。
2- 仮名文字による詳細なエピソードを収載した冊子刊行
臣下服部脩蔵に命じて編ませた露姫の生涯記『玉露童女行状 全』は冠山公の知己に配布されました。この中に収載された「むとせの夢」の存在が大きかったと思います。露姫の日常の詳細なエピソードが盛り込まれ、漢文ではなく仮名文で書かれていました。これで読者層はぐっと広がりを見せ、文の中で活き活きと蘇った露姫の人となりを知ることができたのだと思います。
3- 家族以外の人物が刊行物内で露姫を紹介
露姫の死から2年経った文政7(1824)年刊行の『応化菩薩辞世帖』(※25)、そして更にその翌年文政8(1825)年刊行の『山海里』(※26)は、いずれも江戸から遠く離れた三重、京都の僧侶の手によるものでした。宗派も距離も超えて広がりを見せていったことは、更に大きな影響をもたらしたと考えられます。
|
■巻子仕立てとグリーフワーク
さてここで人々の追悼の作品を玉露童女追悼集として30巻の巻子に仕立てたことに注目したいと思います。全国各地から寄せられた膨大な数の追悼の品々は大きさも形も異なりますから、巻子仕立てと一言で表現しても、実は大変な作業と時間を要する作業だったはずです。どのような行程で行われたのか、それを知り得る資料は今回見当たらなかったのですが、想像するに恐らく冠山公が計画の青写真を示し、臣下らが協力して作業、あるいは専門の業者に依頼するといった流れだったのでしょう。
特筆するべき点は、この追悼集はそれぞれの作品一点一点に名札が付されているところです。作品の中には俳号・雅号・落款等が含まれているものもあれば、一切そうした情報が含まれていないものもありました。作品の右上に縦長の小さな紙に、美しい楷書で丁寧に記した名札を貼付し、巻子として表装していくことは、実に骨の折れる作業だったことでしょう。もちろん業者が名札を作成することはできますが、どの作品が誰のものであるか、それは冠山公側の人々が特定作業を行ったはずです。作品を通して1,600名もの人々と向き合うことで、露姫に追悼の気持ちを寄せてくださった一人一人を思い浮かべ、これほど多くの人々から惜しまれたことを実感し、冠山公の心はあたたまっていったのではないでしょうか。 |
死別後、遺された人々が苦しみながらも、どうにか生きていこうとしていく時にとられる行動、その様子をオーストリアの精神科医ジークムント・フロイトはドイツ語で「trauerarbeit」と表現しました(※27)。英訳された時には「work of
mourning」(※28)と訳され、日本では「喪の作業」(※29)とか「悲哀の仕事」(※30)といった言葉が訳語として使われています。個人的に思うには「喪」「悲哀」と限定するには収まりきらない面があり、「作業」「仕事」という表現は遺族の心の移ろいやそれに伴う日々の行動について表わす言葉としてどうも違和感を拭えません。日頃お子さんを亡くしたご家族とお目にかかった時に感じる空気感から考えると、「仕事」や「作業」は何とも冷たく、突き放されたような響きがあり、ご家族の様子とは随分かけ離れたように感じてしまいます。そのため私は個人的には「trauerarbeit」を「グリーフワーク」と言葉を置き換えて捉えています。
「グリーフ(grief)」とは死別によって生じる苦しい感情ということです。悲しい、辛い、それだけではとても表現しきれないような複雑な気持ち、心の痛手を人それぞれ、抱えています。「ワーク(work)」と言えば日本ではきっと即座に「仕事」と思い浮かべる方が多く、Oxford Learner's Pocket Dictionaryの「work」(※31)を参照すると1番目に「what sb does as a job in order to earn money」と解説されています。お金を稼ぐために職として人が行うこと、すなわちまさに「仕事」ですね。それに続き2番目には「use of one's body or mind to do or make sth, in contrast to rest or play」と書かれています。休憩や遊びに対し、何かを成し遂げたり作り出すために心身を駆使すること、ということですね。つまり目的をもって自分が能動的に懸命に動くことを意味しているのであり、日本語の単語で表現すれば「努力」に相当するのではないでしょうか。つまり私の考えるグリーフワークとは、大切な人を亡くして様々な感情に揺さぶられた人が、試行錯誤、紆余曲折を経ながら自分なりの気持ちの落ち着きどころを段々と見つけ、やがて死別の事実と共に自分の人生を十分全うしていく、その取り組みや努力を表わすということです。波立つ心との向かい方や心のお手当の仕方は人それぞれ異なりますが、苦しくてたまらない、そういう状態からどうにか脱して生きていきたい、そういう能動的な気持ちが形になったものだとも言えます。前置きが随分長くなってしまいましたが、冠山公が周囲の人々と共に成し遂げた30巻の『玉露童女追悼集』の編纂過程は、まさに典型的なグリーフワークの一つだったと思うのです。
冠山公にとってのグリーフワークは追悼集編纂・坐像作製、浅草寺への奉納のみに留まりません。これに先立って手掛けていた『玉露童女行状 全』、こちらの序文は文政7(1824)年の夏(※32)に冠山公が筆を執ったものです。こちらもグリーフワークですね。露姫が亡くなってから1年半ほど時を経た頃となります。我が国には「日薬(ひぐすり)」という言葉があり、経過する時間が癒しの働きをもたらすという見方もあります。一方「去る者は日々に疎し」といった表現もあり、その状態が自分の周囲に起こった時、大切な人を亡くした当事者にとっては自分一人が現実社会から取り残された孤独感に苛まれてしまいます。時の流れは人によって薬にもなれば、新たな傷をもたらす刃にもなり得るのです。冠山公は娘が観音様に守られ、導かれ、病魔とは無縁の安寧な世界で今この時を過ごしている……その信念をより確かなものにするため、親として行動をとってきました。それは娘のためでもあり、かつ自分のためにもなりました。時間のみならず、多くの人々が寄せた作品から滲み出るあたたかな気持ちを感じ得ていくことにより、時間を味方につけ、「日薬」としての働きを得たのだと思います。「多くの人が露姫は私の娘だと知るようになった」と冠山公は自覚することにより、露姫亡き後も露姫の父として、しっかり生きていこうと強く意識するようになったことでしょう。それは娘を誇りに思って生きていくことと同義です。「去る者は……」を用いて表現するならば「去る者は日々に新たに親(ちか)し」(こんな言葉は世の中にはありませんが)、といった関係性に変容していったのではないでしょうか。
|
|
<引用文献・資料, ウェブサイト> |
※1 |
服部 遜 謹撰(1824)『玉露童女行状 全』牛島弘福禅寺蔵板,
「むとせの夢」
国文学研究資料館 新日本古典籍総合データベース,
21コマ
https://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/200023937/ |
※2 |
東京都台東区 有形文化財 歴史資料
玉露童女追悼集
附 木造玉露童女坐像 玉露童女書状
https://www.city.taito.lg.jp/gakushu/shogaigakushu/shakaikyoiku/
bunkazai/yuukeibunkazai/rekisisiryou/gyokurodounyo.html |
※3 |
平成31年台東区指定区民文化財 指定
https://www.city.taito.lg.jp/gakushu/shogaigakushu/shakaikyoiku/
bunkazai/bunkazaigaiyou.files/H31.pdf |
※4 |
Lana-Peaceエッセイ「111字の中に秘められた思い」長原恵子
https://www.lana-peace.com/2/2-3-078.html |
※5 |
玉露童女追悼集刊行会(1988)『玉露童女追悼集 1』金龍山浅草寺,
解題, p.178 |
※6 |
前掲書5,
解題, p.178 |
※7 |
前掲書5,
解題, p.183 |
※8 |
前掲書5, 解題, p.178 |
※9 |
前掲書5,
解題, p.182 |
※10 |
佐藤一斎『僑居日記』,写
国立国会図書館デジタルコレクション
https://dl.ndl.go.jp/pid/11891734
1804/1/27--5コマ, 1804/3/17--19コマ |
※11 |
玉露童女追悼集刊行会(1996)『玉露童女追悼集 5』金龍山浅草寺,
p.161 |
※12 |
前掲ウェブサイト2 |
※13 |
斎藤長秋編ほか(1893)『江戸名所図会』16, 博文館,
国立国会図書館デジタルコレクション
https://dl.ndl.go.jp/pid/994945/1/4
天保5〜7(1834-1836)年刊 (須原屋伊八蔵版) の後刷
4コマ |
※14 |
聖観音宗 浅草寺 ウェブサイト「境内を巡る 本堂」
https://www.senso-ji.jp/guide/guide04.html |
※15 |
松平冠山編(1939)『浅草寺志』上巻,
浅草寺出版部, p.2
国立国会図書館デジタルコレクション
https://dl.ndl.go.jp/pid/1256067
9コマ |
※16 |
前掲書1,
国文学研究資料館 新日本古典籍総合データベース
https://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/200023937/
11コマ |
※17 |
玉露童女追悼集刊行会(1991)『玉露童女追悼集 2』金龍山浅草寺,
p.58 |
※18 |
中村元ほか編(2002)『仏教事典』第二版, 岩波書店, p.252「救世観音」 |
※19 |
前掲書18, p.515「聖観音」 |
※20 |
向山伸子(2009)「江東歴史紀行 松平冠山と亀高村の下屋敷」
『下町文化』244, 江東区教育委員会, p.6
https://www.city.koto.lg.jp/103020/bunkasports/bunka/
shuppanbutsu/documents/sitabun244.pdf |
※21 |
小谷恵造(1990)『池田冠山伝』三樹書房, pp.172-173内掲載
竹尾善筑『薪の煙』 |
※22 |
Lana-Peaceエッセイ「幼女の言葉に宿った新たな命と心の漣」長原恵子
https://www.lana-peace.com/2/2-2-033.html |
※23 |
「幼き死…露姫の供養願う覚書 鳥取・雲龍寺で初めて発見 父の思い伝える=鳥取」 読売新聞,
大阪朝刊, 2008/2/9 |
※24 |
前掲書5, 解題, 『村田春門日記』文政6年7月22日条記載部分, pp.181-182 |
※25 |
池田露(江戸時代_19c)「応化菩薩辞世帖」
画像番号:C0062636, 列品番号: QB-12376,
形状:見開き30.1×20.1cm, 数量:1帖
東京国立博物館デジタルアーカイブ
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0062636 |
※26 |
信暁(1892)『山海里』初篇-3篇中, 弘業館,
文政8年 初篇上「応化菩薩辞世の事」pp.20-24
国立国会図書館デジタルコレクション, 26-28コマ
https://dl.ndl.go.jp/pid/820771/1/26 |
※27 |
FREUD S.(1917)Trauer und Melancholie,
Internationale Zeidschrift fur arzriche
Psychoanalyse, 4, pp. 288-301 |
※28 |
Sigmund Freud, Translated by James Strachey,
mourning and melancholia, The standard edition of
the complete psychological works of Sigmund Freud,
Vol. 14, On the History of the Psycho-Analytic
Movement, Papers on Metapsychology and Other Works
(1914–1916), pp. 243-258, London: Hogarth Press |
※29 |
フロイト・ジークムント著,伊藤正博訳(2010)「喪とメランコリー」新宮一成ほか訳『フロイト全集
14』岩波書店, p. 30 |
※30 |
小此木啓吾(2000)『対象喪失 悲しむということ』中央公論新社, p.48 |
※31 |
Martin H. Manser et al.(1991)Oxford Learner's
Pocket Dictionary, New Edition, Oxford University
Prrss, p.477 |
※32
|
前掲書1, 序文(不軽居士)
国文学研究資料館 新日本古典籍総合データベース
https://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/200023937/
4コマ |
|
|
|
|
|
グリーフワークを経て変容した方の多くは、以前よりも生きる世界の広がりを感じるようになります。そのような変容のお手伝いをこれからも続けていきたいなと思います。 |
2023/11/18 長原恵子
2023/11/19 一部加筆修正 |
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
| |