|
これまで鳥取西館新田藩
第五代藩主池田定常(松平冠山)公の十六女・露姫について取り上げてきました。今日は第6回目です。露姫の死後、ある日冠山公は娘の生前の願いを突如知り得ることとなりました。冠山公にとってどれほど心を打つものであったのか。それは後の暮らし向きを変え、亡くなる迄、頑なに娘の願いを守り通した冠山公の姿勢からも明らかです。亡き娘への深遠とした慕情がしみじみ感じられる冠山公のエピソードを今回はご紹介しようと思います。こちらの情報の原典は前回と同様、冠山公の命を受けた腹心の臣下
服部脩蔵によって編まれた露姫の生涯記「むとせの夢」(※1)となります。
|
---※---※---※--- |
■死後1カ月
文政6(1823)年の元旦、露姫のいない鉄砲洲の上屋敷は何とも言えない寂しさで埋め尽くされていました。前年の晩秋、あんなにも早く露姫がその生涯を閉じてしまうとは、誰も思いもしなかったのでした。どこからともなく露姫の明るい声や足音が、まるで何ごともなかったかのように聞こえてきそうな、そんな気持ちを誰もが消し去ることはできなかったことでしょう。ちょうど元旦は露姫が亡くなってから五七日(いつなのか)の忌日にあたっていました。冠山公は早々に露姫の眠る弘福寺に参って露姫を偲び、冥福を祈りました。その一週間後、露姫の姉たちは露姫の箪笥の中から挿絵の添えられた三首の和歌を詠んだ書状を見つけ出しました(※2)。虫の知らせであるのか何であるのか、ともかく短い人生であるとわかった上で、この世との別れを名残惜しく思って詠んだかのような二首の歌と共に、両親への感謝を詠んだ「あめつちのおんはわすれしちちとはは」を見つけたことで、冠山公の胸はどれほど掻き乱されたことか。まだ屋敷のどこかに、露姫の息遣いを感じられるような痕跡が潜んではいまいか……そうした一縷の望みを冠山公は抱いていたことでしょう。
三首の歌の書状が見つかった3日後の1月11日、冠山公は侍女のときに探し物を頼みました。「むとせの夢」には「御伝のとき大殿の仰によりて物もとむることあり」(※3)とだけ記されています。「露姫の書状を……」とは記されてはいませんが、露姫の遊び道具の箱の中を探していますから、露姫の何かゆかりの品を見つけるよう仰せつかったのでしょう。すると遊び道具の箱の中から左封じにされた書き物が一通出てきました。上書きには「上あける つゆ」と書かれていました。「上」とは目上の人、すなわち「お父様」がこの書状を開けること(他の人は開けないでほしい)、ということでしょうか。ときはその書状を冠山公にお渡ししました。
|
露姫の自筆と思われるものを現在、国立公文書館デジタルアーカイブで見ることができます。
|
|
|
次のように書かれていたのでした。
|
おいとたからこしゆあるな つゆがおねかい申ます
めてたくかしく おとうさま まつたいらつゆ
上あけるつゆ
|
|
図1 幼女遺筆 楷書に書き起こしたもの(長原作図) |
|
「おいとたから」これは「おい=老い」すなわち「もうご高齢だから」ということでしょう。「こしゆあるな」これは「御酒」を(召し)「上がるな」(原文は「あるな」ですが恐らく「上がるな」の「が」が欠字になっていると考えられます)と解釈すれば「もうお年なのですから、お酒を召し上がらないでください。」ということですね。
「つゆがおねかい申ます」は「露がお願い申し上げます」、「めてたくかしく(めでたくかしく)」これは女性が文章を書いた末尾に添える言葉として、当時認識されていた表現です。「むとせの夢」は服部脩蔵によって編まれ、山崎美成が拝書したものですが、山崎美成は天保11(1840)年に刊行した『三養雑記(さんようざっき)』巻三で「めでたしくかしく」という表現について触れ、当時の女性の文章の末尾には「めでたくかしく」と書かれることが定まっていたと記しています(※4)。満5歳になったばかりの女児がそうした文章のお作法を知っていることからも、露姫が高い教育を受けていたことが伺えます。
「おとうさま まつたいらつゆ」これまで見つかった露姫の自筆2通はいずれも「六つ つゆ」と書かれていました。ここであえて「まつたいら(松平)」と記したのは、自分は池田定常(松平冠山)公の娘である、と強く意識していたからでしょう。本来池田姓ですが鳥取西館新田藩の初代藩主が幕府から松平姓を賜り、五代藩主定常公の時代も幕府内では「松平定常」と認識されていました。それは武鑑の中でも確認できますが、更に隠居後、四十代半ばの折、仏道に帰依するようになってから定常公は「冠山」と称するようになっていました。詳細はこちら(※5)でも触れているのでご参照ください。「めでたくかしく」とまるで大人の女性のような書き止めの表現と共にフルネームを記載することで「あなたの娘として、父上に申し上げたいことがある。だから幼いこどもの戯言だと聞き過ごすのではなく、どうか大人の私からのお願いだと思って真剣に聞き届けてほしい。」といった露姫の強い気持ちを表わしたのでしょう。
|
■父の心身を気遣う娘
冠山公は24人の子宝に恵まれ、第一子は寛政元(1789)年12月13日、冠山公満22歳の時に誕生した徽子(よしこ)でした(※6)。父冠山公にとって末っ子の露姫は、満50歳の頃に誕生した子です。不惑をとうに越え、そして知命を迎えた父親です。当時どれほど冠山公が健康快活であったとしても、20代の父親のような溌剌さはありません。露姫が父の健康を案じることも無理ないことだったでしょう。
そして冠山公は大のお酒好きでした。それは冠山公も自覚しており「むとせの夢」にはあまりに自分の酒量が過ぎる時、どうか止めてほしいと周りの者に頼んでいたエピソードも登場するほどです(※7)。ただいくらそのように言いつかったとしても、実際そうした場面に出くわした時に畏れ多く、進言できる者がいるはずもありません。そこで露姫が活躍したのでした。父の酒量が進む時は深酒にならぬよう、どうにか留まらせようと露姫が走り出ていました。また父の帰りが遅い時はひどく心配し、外出先に誰か迎えの者を出そうか、お手紙をお送りしようか等と言うこともあったほどでした(※8)。それは幼いこどもの気遣いの域を超え、まるで分別のついた立派な大人の振る舞いのようだったのでした。父の健康を案じるだけでなく、酔いが過ぎた父が酒宴で失態を起こしたならば、父の名誉を損じることになってしまう、そう思っていたのでしょう。
また、露姫は父の役に立ちたいと思う強く気持ちもありました。文政4(1821)年4月、参勤交代のために露姫の兄であり第七代藩主の定保公が国許へ発った時のことです。母たへはこれに同行しましたが、露姫は江戸に残りました。露姫はまだ当時3歳です。周りの者から母たへは同行したけれども、どうして母と一緒に行かないのか尋ねられた時、露姫はきっぱりと言っています。お父様が江戸に残っているのだから、自分も江戸に残り、お父様が寂しくないようにお話し相手にならなくてはいけないのだからと(※9)。
|
■娘の願いに応える父
冠山公が酒を控えるよう、切々と訴える露姫の遺筆に心をすっかり打ち砕かれたことは想像に難くありません。どれほど強く心を動かされたか、それはこれを契機にその後もずっと禁酒したことに現われています。その固い決意は周囲が憂うほどであり、あれほど大好きだったお酒を突然断つことはかえって身体に障るのでは、と案じる者さえいました。冠山公と非常に仲の良かった儒学者の古賀侗庵は露姫の亡くなった翌年、冠山公に贈った漢詩「勧酒篇」の中で当時の冠山公の様子を「紅涙滴成絲」と表わしています(※10)。血が混じって赤く染まった冠山公の涙のしずくは、まるで糸を成すように流れ落ちている、と表現しているのです。続く「誓自破兕觥」は冠山公の強い決意と態度を表わしたものです。「自ら兕觥(じこう)を壊してしまおうと誓った」ということです。兕觥とは注酒器・飲酒器のことですから、禁酒を固く守り続けるために、冠山公は飲酒に必要な器を自分で壊そうと心に決めたのです。その決意が揺るぎないものであったことは露姫の死から十年後、冠山公が記した随筆『思ひ出草』からも見て取ることができます。当時、病いで臥せていた露の母たへを看病するため、冠山公は外出を控えていました。そして『思ひ出草』を綴っていたのです。『思ひ出草』巻3の「物ハの事」で冠山公は、大人になってから好きになったものとして「書籍。茶。酒。烟草。」を挙げています。しかし「酒は露児が戒しにより、今は脣をも濡さず。大欲の存せるひとつも老ぬればやみぬ。」(※11,
12)と記しています。娘からの禁酒の戒めを10年後も固く守っていたのです。かつてはあれほど欲していた酒であるけれども、露姫の禁酒の願い以降、まったく口にせず、年を取ったこともあって飲みたい気持ちは失せてしまった、と言っているのです。この翌年冠山公は亡くなりました。つまり冠山公は露姫の願い通り、露姫亡き後、終生、酒を断ったのでした。
露姫からの切なる願いを叶えたら、時空を超えて当時娘が自分に寄せてくれた真心と、あるいは肉体から解放された今の娘の魂と繋がることができるかもしれない……そのような思いが冠山公を突き動かしたのかもしれません。
|
|
<図・資料> |
|
|
<引用・参考文献> |
※1 |
服部 遜 謹撰(1824)『玉露童女行状 全』牛島弘福禅寺蔵板,
「むとせの夢」
国文学研究資料館 新日本古典籍総合データベース,
21コマ
https://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/200023937/ |
※2 |
Lana-Peaceエッセイ
「蝶と桜と雨に思いを乗せて」 長原恵子
https://www.lana-peace.com/2/2-3-076.html |
※3 |
前掲書1, 26コマ
https://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/200023937/ |
※4 |
早稲田大学図書館古典籍総合データベース
山崎美成 撰『三養雑記』 巻3 (1890・天保11年成立の後刷)
名古屋・梶田勘助出版, 29コマ
https://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/i05/i05_00120/ i05_00120_0003/i05_00120_0003.html |
※5 |
Lana-Peaceエッセイ
「幼女の言葉に宿った新たな命と心の漣」 長原恵子
https://www.lana-peace.com/2/2-2-033.html |
※6 |
鳥取県 編「校正池田氏系譜」(1972)『鳥取藩史 別巻』
鳥取県立鳥取図書館, p.308
国会図書館デジタルコレクション,
175コマ https://dl.ndl.go.jp/pid/9573526/1/175 |
※7 |
前掲書1, 16コマ
https://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/200023937/ |
※8 |
前掲書1, 16コマ
https://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/200023937/ |
※9 |
前掲書1, 14コマ
https://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/200023937/ |
※10 |
小谷恵造(1990)『池田冠山伝』三樹書房, p.144
古賀侗庵「古心堂詩稿」より「勧酒篇 呈冠山源公」 |
※11 |
冕嶠陳人(1832)『思ひ出草』巻3
国立公文書館デジタルアーカイブ
「物ハの事」11コマ
https://www.digital.archives.go.jp/img/4124111 |
※12 |
池田定常著『思ひ出草』巻7「物ハの事」
森銑三ほか編(1980)『随筆百花苑』第7巻, 中央公論社,
p.400(翻刻版) |
|
|
|
|
|
|
生前のお子さんと交わすことのできなかった約束があったとしても、それを果たせぬ約束で終わらせるのかどうか……きっと、それは遺された人の生き方次第。「もう、遅い」なんてことはありません。いつでも毎日が挽回のチャンスなのだと思います。いつか自分が人生を終えた時、胸を張って「約束、守ったよ!」と笑顔でお子さんに伝えられるように。 |
2023/7/31 長原恵子 |