切なる思いを括り猿に託して
ー 紙袋の裏の前書きと和歌 ー
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これまで鳥取西館新田藩
第五代藩主池田定常(松平冠山)公の十六女・露姫について取り上げてきました。今日は第10回目です。幼児の頃の記憶の彼方に、紙を折って袋を作り、何かお気に入りの物を入れてみた、そんな場面があるかもしれません。その多くは楽しい遊びの一環で作っているはずですが、単に入れ物としてではなく、それ以上の意味を持つ場合があったとしたら……今日は何ともジーンとする露姫の紙袋のお話をご紹介したいと思います。情報の原典は前回と同様、冠山公の命を受けた腹心の臣下
服部脩蔵によって編まれた露姫の生涯記「むとせの夢」(※1)となります。
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■括り猿と紙袋
この世を一足先に去ってしまう寂しさと名残惜しさを露姫が111文字の中に暗号のように散りばめた書状が見つかって(※2)から、3週間ほど経った文政6(1823)年2月7日のことです。翌日2月8日は雑司が谷の鬼子母神の縁日ということで、露姫の侍女のときとたつは亡き主の代理として参詣しようと考えました。露姫は神仏への信心を持つ子でしたが、雑司ヶ谷の鬼子母神には殊更強く心を寄せていたからです。疱瘡(ほうそう:現代の水痘・水ぼうそう)によってついに全身状態が悪化し、目を開ける気力さえもなく、口唇も乾ききって、声もか細く死が迫り来ていた頃にも「ただ早く、雑司ヶ谷に行きたい。お供は揃ったか……」そう何度も繰り返し切望していたのでした。
参詣するにあたり、ときとたつは露姫が生前、鬼子母神へ奉納するために用意していた括り猿(くくりざる)を探し始めました。括り猿とは綿を色鮮やかな絹布で包み、その四隅を中央に集めて手足を一つに縛られた胴体を模し、そこに頭をつけて猿に見立てた布人形です。手足の自由が利かない猿の姿は、何とも気の毒な気もします。しかし江戸時代の文献等を合わせ見ると、当時の人々は括り猿に願い事を叶える力、あるいは災厄を取り払う力を見出していたようですので、いくつか紹介しておきます。
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1)括り猿がお守りになる例
露姫誕生の12年前の文化5(1805)年成立と伝わる万象亭(森島中良)(まんぞうてい・もりしまちゅうりょう)の随筆『反故籠(ほうぐかご)』が、とても参考になります。ここには当時、三神目坊主という疫神から逃れるため、女中の間では括り猿に鈴をつけてお守りとすることが大流行し、一時、江戸中の鈴が売り切れてしまうほどの人気ぶりだったと記されています(※3)。
2)鬼子母神で括り猿が安産のお守りとして配られていた例
『反故籠(ほうぐかご)』から8年後の文化10(1813)年、十返舎一九の作品
『金草鞋(かねのわらじ)』にも括り猿が登場します。奥州の僧侶と狂歌師が日本各地を巡る道中記の中で、雑司ヶ谷の鬼子母神を訪れる場面が登場します。括り猿を安産のお守りとして頂いて帰る参拝者の姿を見て「安産にさるとはじみなお咒(まじな)ひこれではきやつとつん出べいもし」と狂歌が詠まれたのでした(※4,
5)。
3)括り猿と疱瘡
江戸から遠く西に離れた浪花の地では、疱瘡対策として括り猿が使われていました。19世紀半ば、当時の大坂について鶏鳴舎暁晴が記した『浪華の賑ひ』によると四天王寺の南に位置する庚申堂について「奉納の括り猿は疱瘡の難をまぬがれ七色の供物は盗賊の禍を除くとてこれを受くる人夥し、原来当初は日本の最初の庚申にして霊験最も他に超えたり」(※6)と記されています。この説明によると、疱瘡にかからないように人々は括り猿を奉納し、誰か別の人によって既に奉納された括り猿を頂いて帰る人が多かったということでしょうか。当時水痘は疱瘡の神様によって起きる病気と考えられていましたから、庚申堂に奉納されることによって括り猿は強い霊力を獲得し、それを頂くことで罹患しないで済むと信じられていたのでしょう。東西を問わず括り猿は人気があったことがわかります。
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その頃江戸では疱瘡が流行していたので、露姫は「疱瘡除け」のご利益を期待して括り猿を用意していたのでしょう。ときとたつは括り猿の入っている紙袋を見つけると袋を傾け、括り猿を取り出しました。すると袋の裏側に何やら文字が書かれているのを発見したのです。それは懐かしい露姫の筆跡でした。
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ゑにしふかきかゆへにちちとなし こころミちあるゆへにははとなし おんをうけ おんをゑんとしてみちひく(※7, 8)
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そのように前書きが記された後に、句が詠まれていました。
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翻刻版では「ミつのおん」と記されていますが、国文学研究資料館の国書データベースに登場する山崎美成の文字を見ると「つ」の斜め上にはっきりと濁点があるため「ミづのおん」であるとここでは考えてみたいと思います。ひらがなだけではわかりにくいため、あくまでも私の個人的な見方ですが、ここに漢字を当ててみましょう。
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縁深き故に父となし 心道ある故に母となし 恩を受け 恩を縁として導く
生まれ出て 親より重し みづの恩 露
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「みづの恩」の「みづ」は活き活きとした美しさや吉祥の印を意味する「瑞」であるのか、「見ず」としていまだ見たこともないような、例えようのないほどの素晴らしさを形容するものなのか、あるいは目には見えないけれども確かにその存在を信じる鬼子母神を表わしたものであるのか、もしくはこれらとは全く別の意味であるのか、私にはわかりません。ただ鬼子母神に奉納するための括り猿を入れていた袋に書かれていたことを考えると、「みづの恩」を露姫にもたらした主は鬼子母神であり、露姫は心からありがたく思い、感謝の気持ちを捧げたかった、と捉えることができるのではないでしょうか。
そうした理解を踏まえて前書きとこの和歌をもう一度見てみますと、露姫は「縁・絆・恩」によってこの世の自分の命が成り立っていると認識していたことが浮き彫りになってきます。満5歳になったばかりとは思えぬほどの深い人生観です。この世で深いご縁で結ばれていたからこそ冠山公を父として、心の絆が強かったからこそたえを母として私はこの世に生まれるご恩を頂いた。そのご恩は縁となり、私にとって導きにもなった。そしてこの世に生まれ出た後、親以上に更に尊いご恩を鬼子母神から頂いた。そのご恩をずっと忘れず、感謝したい……その思いが言語化され、17文字の和歌の中に表現されているのです。200年ほど前に時間を巻き戻し、露姫に会ってみたいと思わずにはいられませんね。
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■露姫と鬼子母神
死が迫りくる中でも参詣したいと露姫が願い、親以上の感謝を捧げていた鬼子母神は、露姫とどのような関わりがあったのか、それは露姫の生後7-8カ月の頃に端を発すると考えられます。雑司ヶ谷の鬼子母神は露姫の住む鉄砲洲の上屋敷(現在の東京都中央区の聖路加ガーデンのあるあたり)から直線距離にして北西に約8.5km離れた場所にありました。その頃、乳母たつの母乳の出が悪くなっていました。いくら離乳食が始まっている時期とは言え、母乳はまだ欠かせません。別の乳母が手配されたものの、露姫はその乳母に馴染めず困っていました。父冠山公はそうした状況を憂慮し、雑司ケ谷の鬼子母神に祈願したところ、再びたつの母乳の出が回復するようになったのです。きっと物心ついた頃に露姫はその話を何度も大人から繰り返し聞かされ、鬼子母神へ深い恩義を感じていたことでしょう。人工乳も点滴治療も胃管注入もない時代、乳児にとって母乳を飲めないことは生命の危機とも言えます。露姫はそこで命が途絶えることになったかもしれないのですから。
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露姫は鬼子母神へ奉納するための括り猿の作成を、ときとたつにお願いしていました。どれほど露姫が優秀なこどもでも、針と糸を器用に使いこなして括り猿を作ることは、なかなかハードルが高かったはずですから。けれども、自分の感謝の気持ちは大人の力を借りるのではなく、自分の言葉で伝えたい一心だったのでしょう。括り猿を保管する時「自分の気持ちをもっと届けるためにはどうすれば良いか」と随分思案した様子が目に浮かぶようです。『むとせの夢』では「かたむけうつしゝに袋のうらに」(※11,
12)とあります。「袋のうら」とは紙袋の外側の裏面のことなのか、紙袋の内側の事を指すのかはっきりしませんが、中に入っていた括り猿を袋を傾けて外へ出したところで初めて気付いた、という話の流れになっています。恐らく「紙袋の内側」なのだろうとここでは考えて話を進めます。思案の結果、露姫は文字を書いた紙で袋を作り、その際、文字面を内側にしようと思い立ったのでしょう。文字が括り猿に直接触れることで、自分の感謝の思いがより一層強く括り猿の心の中に転写されますように……そう願って心を込めて前書きと歌を墨書きし、その紙の文字面を内側にして袋を作り、括り猿を収めておいたと推測します。
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死後、括り猿の袋をときとたつに見つけてもらえた時、露姫の魂はどんなに嬉しかったことでしょう。心の底から喜びを感じたはずです。この世で自由に動ける身体を失った今、もう思いを託した括り猿を鬼子母神へ奉納することはできません。感謝の気持ちを伝えられなかった心残りを解消するために、露姫の魂は不思議な力を使って括り猿の袋が見つかるよう侍女を突き動かしたのでしょう。偶然ではなく、必然として。
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<引用・参考文献・ウェブサイト> |
※1 |
服部 遜 謹撰(1824)『玉露童女行状 全』牛島弘福禅寺蔵板,
「むとせの夢」
国文学研究資料館 新日本古典籍総合データベース,
21コマ
https://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/200023937/ |
※2 |
Lana-Peaceエッセイ
「111字の中に秘められた思い」長原恵子
https://www.lana-peace.com/2/2-3-078.html |
※3 |
万象亭「反故籠」国書刊行会編(1908)『続燕石十種 第1』国書刊行会, p.487
国立国会図書館デジタルコレクション, 251コマ
https://dl.ndl.go.jp/pid/991279/1/251 |
※4 |
十返舎一九著『諸国道中金の草鞋』1嵩山堂,
国立国会図書館デジタルコレクション, 28コマ
https://dl.ndl.go.jp/pid/878286/1/28 |
※5 |
十返舎一九作「方言修行金草鞋初編」博文館編輯局校訂(1910)『一九全集 4版 (続帝国文庫 ;
第21編)』博文館, p.570
国立国会図書館デジタルコレクション, 290コマ
https://dl.ndl.go.jp/pid/1882626/1/290 |
※6 |
鶏鳴舎暁晴ほか編輯(1975)安政二年版『浪華の賑ひ』中外書房,ページ番号なし
国立国会図書館デジタルコレクション
二編:原文 57コマ, 現代文 119コマ
https://dl.ndl.go.jp/pid/9573140/1/119 |
※7 |
前掲書1,
国文学研究資料館 新日本古典籍総合データベース,
27コマ
https://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/200023937/ |
※8 |
玉露童女追悼集刊行会(1988)『玉露童女追悼集 1』金龍山浅草寺, p.173 |
※9 |
前掲書1,
国文学研究資料館 新日本古典籍総合データベース,
27コマ
https://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/200023937/ |
※10 |
前掲書8, p.174 |
※11 |
前掲書1,
国文学研究資料館 新日本古典籍総合データベース,
27コマ
https://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/200023937/ |
※12 |
前掲書8, p.173 |
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生前果たせなかった思いをこの世に生き残っている人が叶えていく、蝋燭の炎が継がれて行くように燈々代々、それは形と次元を変えて生き続ける命の形とも言えます。亡き子の命は消え去るのではなく、生き残った家族の心の中に宿り、縁の下の力持ちとして彼ら・彼女らの人生を支える新たな役割を生きていくのだと思います。 |
2024/2/11 長原恵子 |