病児・家族支援研究室 Lana-Peace(ラナ・ピース)
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伝えたかった感謝と思慕の念

これまで3度にわたってご紹介してきた鳥取西館新田藩 第五代藩主池田定常(松平冠山)公の十六女・露姫ですが、いよいよ今回から死は人を分かつものではない、思いは繋がる、そう感じられる露姫の死後のエピソードをご紹介していくことにいたします。こちらの原典は定常公の命を受けた腹心の臣下 服部脩蔵によって編まれた露姫の生涯記「むとせの夢」(※1)となります。

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■死後1カ月
文政5(1822)年11月、疱瘡(ほうそう:現代の天然痘)に苦しむ露姫を救うため、当時名医と名高い医師が集結し、懸命な治療が行われました。家族やお付きの者らも何とか治りますようにと必死で看病を行いましたが、病魔に打ち勝つことは叶わず、同月27日朝、露姫は息を引き取りました。満5歳になったその月末のことでした。

露姫のお世話を赤ちゃんの頃から行っていた侍女のとき・たつは毎日露姫の墓参りに出かけました。出かけたというよりも、出かけずにはいられなかった、という方が正しいのかもしれません。死別による喪失感はとてつもなく大きかったことでしょう。露姫が葬られた江戸・向島の弘福寺の墓所は今の東京・中央区、聖路加国際病院付近にあった冠山邸から二里の距離、現代風に言えば片道約8km弱の道のりとなります。成人女性の足で向かえば1時間40分くらいになるでしょうか。雨が降ろうが、雪が降ろうがそんなことは関係なく、ときとたつは露姫の墓へと通いました。そして邸内にいる時はまるで露姫をお守りするかのように夜昼を問わず、露姫の位牌の前に座っていたのでした。

露姫の命日後、七日毎に迎える忌日はいつも穏やかな空模様でした。仏様の御加護による計らいだったのでしょうか。法要に向かう人々もその足元を心配する必要がなく、参加することができたのでした。

やがて露姫の死から1カ月後、年の瀬も迫った同年12月28日、ときとたつは露姫の母たえと共に露姫愛用の遊び道具等を部屋で整理し始めました。大事にしていたおもちゃを手にすれば、あの時はこんな風だった、こんなことを話していたなあ等としみじみ思い出が蘇っては手が止まり、整理もなかなかはかどらなかったことでしょう。露姫が満面の笑顔で「おはじきをして遊ぼう」と、今にもふすまを開けて入ってきそうな気がして、過去の思い出と今の現実とが交錯し、心かき乱されていたかもしれません。それはきっと大切な人を見送ったどこの家庭でも起こり得ることです。そのような時は感情の流れるままに過ごす方が健全だと言えます。死別後、流すべき涙も吐き出すべき感情も、少しずつそのようにして排出していくことは、死後の現実と向き合って新たな生活を始めていく上で、とても大切なステップとなります。

さて3人は机の整理に取り掛かることにしました。引き出しを開けると箱があり、中を開けると何やら書き物が入っていました。それは半紙を横折りにしたもので、外側には「とき」「たつ」と幼児の書いたであろう朴訥とした文字で二人の名が並べてあり、連名の下に「さま」と墨で書かれていました。明らかに侍女のときとたつへ宛てた手紙です。そしてそのそばに「六つ つゆ」と添えられていました。露姫が満5歳の誕生日をお祝いされたのは前月の11月2日のことでした。当時は数え年で年齢表現されていましたから、露姫は「数え年で6歳」だったことになります。

露姫の自筆と思われるものが現在、国立公文書館デジタルアーカイブで見ることができます(※注1)。アーカイブ画像はかなり倍率を拡大しても画像が粗くなるわけでもなく、非常に鮮明に見ることができます。露姫のリアルな筆跡からこの書状を書いた時の露姫の息遣い迄もが伝わってきそうです。デジタル技術の進歩はあらためて素晴らしいものだと感嘆するばかりです。ぜひ直接、ご覧になってください。

ここに何が書かれているのか、当方が楷書で書き起こした作図を載せておきます。

 
図1 幼女遺筆 楷書に書き起こしたもの(長原作図)

ひらがなの羅列では、なかなか意味が通りにくいかもしれません。漢字を当てて書き直してみます。「縁ありてたつとき我に使われし 幾年経ても忘れ給ふな」です。
「むとせの夢」では「はん紙をよこに折らせ給ひ、御うハ書に、とき、たつとならべて、ふたりが名をかねて、その下にさまとかゝせ給ひ、六ツつゆとあそバし、うちに御歌……」(※2, 3)とあります。「はん紙」とありますが、画像から現代の書道で用いられる半紙より、少し厚みがあるような感じを受けます。

書状の大部分が淡い茶色に変色しているのは、日光と年月による影響でしょうか。横長の紙の向かって右側から左側へ縦書きで9行書かれ、最後につゆの署名と宛名が登場します。書状右上には淡い朱色の「内閣文庫」の押印跡が見てとれます。内閣文庫とは明治政府のいわゆる図書館であり、ここには江戸幕府から引き継がれた、あるいは買い足された古文書や海外の書籍等が所蔵されていました。内閣文庫の印が押されていたということは、露姫の書状も貴重な古文書として当時認識されていたことになります。いつの時点でこの書状が内閣文庫に収められたのか私の方では調べようもありませんが、少なくとも幼女の書いたこの私信を江戸末期または明治初期に価値のあるものとして認識し、後世に残し伝えようと決定した人物がいたからこそ成り立つ話です。そして21世紀を迎えてもこうして現代に伝えられていることをとても嬉しく思います。

それではこの書状をもう少し詳しく見てみましょう。
■構造
この横長の書状を3分割するような間隔で黒い縦の線が2本見えます。4行目と5行目の間に1本、8行目と9行目の間に1本です。恐らくこの線の辺りで私信は折られた状態で、しばらく保管されていたことが考えられます。向かって左側1/3と右1/3を比べると、若干右側の方が幅が広く、中央部分は左右部分よりも更に幅が狭いため、左1/3または右1/3が最上面になってZ字状に折られたことが考えられます。更に8行目と9行目の間「れたもふ」と「な」の間の縦線が最も濃い黒線であるため(汚れているため)、恐らくここが人の手に振れやすい状態の最外面であったと思われます。
「むとせの夢」には侍女の名前が「御うハ書(上書)」にあったということからも、やはり左1/3が最上面となり、Z字状に折られた状態で箱の中に収められていたと考えて差し支えないでしょう。そしてこのような状態では箱の中から最初に発見された時、侍女の名と共に見えていたのは最文末の「な」と右半分だけ表示された「ゑんあ」だと考えられます。母と侍女はこれを見つけた時、驚きと共に胸の高鳴りを抑えられなかったのではないでしょうか。

■文章に込められた思い
32文字の仮名、ここには「この世でご縁があって、たつさんとときさんは私の身の回りのお世話をしてくれました。これから何年経ったとしても、私のことをどうか忘れないでください。」と書かれていたわけですが、その短い文章の背後には「私はお二人のことが大好きです。お二人から受けたご恩を私は決して忘れません。ありがとうございました。」といった侍女への感謝と思慕の念が溢れていることは言うまでもありません。末尾に記した二人の侍女の名に寄り添うように書かれたつゆの名は、ずっと一緒にいたい、そういった何ともいじらしくも切ない気持ちが表現されているように思えてなりません。

■6歳の矜持
そして「つゆ」の署名のから少し離れて「六つ」と書かれています。もしかしたら文面を書き、宛名と署名をした時点では、自分の年齢を書いていなかったのかもしれません。しかし、本文と宛名の間に残った空間を見た時、そこに書き足そうと思ったのではないでしょうか。他の文面の墨の濃さに比べて幾らか控えめであることかからも、末筆に書かれたものだと考えられます。
そうであったならばこの書状の中で最後の言葉がなぜ「六つ」なのでしょうか。そこには数え年6歳の誕生日を祝ってもらい、一歩大人に近づいたことへの誇らしさが表れているのではないかと私は思います。11月2日の誕生日後、家族やお付きの者に一切知られることなく筆を執るとしたならば、発熱が起きた11月9日夜までの1週間のうちであったはずです。誕生日を迎えてほやほや、誰かに「私、もう6歳なのよ!」と言いたかった心弾む気持ちが伝わってきます。

■縁ありて
「縁」と聞けば皆さんは何を思い浮かべるでしょうか。若い人にとっては良き伴侶との出会いを願う良縁祈願がすぐに浮かぶかもしれません。他者との関係性を考えた時、自分の努力であるとか、思惑による様々な行動を除外して、思いもかけない巡り合わせによって他者との新たな望ましい関係性が生まれる……そのきっかけを得た時に人は「縁」を感じるのではないでしょうか。満5歳、数え年6歳になったばかりの幼女が侍女である成人女性との関係性に対して「縁ありて」と表現すること自体、大きな驚きですね。元藩主の娘と、仕える侍女との関係性ですから、露姫が侍女らについて「我に使われし」と表現していることは、邸内での上下関係が明確であったことは百も承知でしょう。しかしながら、そこに「縁があって自分に仕えてくれた」と捉えていること自体、一般的な幼女の精神性を遥かに超えたものであると言えます。

こちら(※4)でご紹介したように、露姫は仏教の教えを耳にする機会が何度もありました。僧侶が冠山邸に来訪し、年長の家族向けに仏法を説いていた時、露姫はおとなしく末席でその講話を聴いていました。露姫が冒頭「縁」をわざわざ取り上げてメッセージを書き始めたのは、仏教の説く縁を露姫なりに解釈していたからだろうと思います。岩波書店の仏教事典の「縁」を開くと「広義には、原因一般、あらゆる条件をいい、狭義には、結果を引き起こすための直接的・内的原因を(因いん)(hetu)というのに対し、これを外から補助する間接的原因を(縁)という。」(※5)とあります。もちろん両名が自分の侍女になったのは、組織内の人事上任命されたことが直接的なきっかけではありますが、多数いる職員の中でこの二人だけが選ばれた、それはまさに直接的な原因(侍女として任命される)を補助する「縁」の働きがあったと考えることができます。自分の周りにはそうした縁によって様々な事柄が成り立っているのだと露姫は日頃から考えていたからこそ、自然に「ゑんありて…」から侍女へのメッセージを始めたのだろうと思います。

■たつとき…いくとしへても…
「たつときわれに…」これは侍女の名前「たつ」「とき」を示していると考えることに異論を唱える人はいないと思いますが、大人顔負けの精神性を発揮していた露姫ですから、更に別の意味があったかもしれません。先に挙げたように(※6)露姫は発熱の前日、11月8日にまるで生前整理、形見分けとも思われるような行動をとっていました。露姫はその頃何らかの理由によって自分の死期を悟っていたとも考えられます。「たつとき」は「発つ時」の意味が重ねられていたと捉えることはできないでしょうか。
一方「いくとしへても」これは「幾年経ても」すなわちこれから何年も時間が経ったとしても、という意味ですが「逝く年経ても」の意味も重ねられていたように思います。
それでは用いられている言葉には背後に別の意味が重ねられていると仮定して、もう一度メッセージを読んでみます。
「縁ありて発つ時我に使われし 逝く年経ても忘れ給ふな」
これは「ご縁があったお二人は、私がこの世を去る時も、きっと私の世話をしてくれることでしょう。そして私の死後、年が明けてどれほど月日が流れたとしても、どうかいつまでも私のことを忘れないでください。」と願う気持ちが読み取れるように思います。
どれほど修行を積んで達観した大人であっても、このように自分の死及び死期、そして死後の時間についても冷静に思いを馳せることはなかなかできることではありません。

■忘れ給ふな
文面の最後は「忘れ給ふな」と結ばれています。これは相手に対する尊敬を表わす補助動詞「給ふ」に禁止の終助詞「な」がつけられ、お忘れにならないでください、と露姫は言っているのです。メッセージの中で最も大きな字で「な」と書いています。「絶対に忘れないでほしい!」そんな強い気持ちが感じられます。江戸時代、身分制度が強く存在しました。まして露姫はときやたつの雇用主の娘、ときとたつは被雇用者の関係性です。そのような背景があったにもかかわらず、露姫は「我を忘るな」という命令形ではなく「忘れ給ふな」と相手に対する尊敬を十分保った表現をとっているのです。
露姫は「縁」をとても大切なものだと認識し、縁によって自分と結びついていたときとたつに対して、人生の先輩として深い敬意を払っていた、そこに露姫の高い精神性の片鱗を垣間見ることができるように思います。

この書状をきっかけに、このあと露姫からのメッセージと思われるものが次々見つかっていったのでした。

次回へ続く

<注> 
注1 国立公文書館のウェブサイトで露姫の遺筆(データベース内で登録されている名称は「幼女遺筆」)は、2つの原典から見ることができます。1つは今回取り上げた資料1である幼女遺筆(手紙)国立公文書館デジタルアーカイブです。もう1つは19世紀半ば、幕府の編纂事業に従事していた宮崎成身がプライベートに編んだ雑録『視聴草(みききぐさ)』2集之7に他の3点と共に納められているものです。『視聴草』内での目次タイトルも「幼女遺筆」となっており、デジタルコレクションの『視聴草』では35コマ目に登場します。『視聴草』の詳細はこちらでも取り上げていますのでご参照ください。『視聴草』の中では左右ページに分割され、見開きの状態で露姫の「ゑんありて……」が掲載されています。成身は露姫の遺筆の木刻印刷版を入手し、和綴じの冊子に収載するために見開き用に自分で2分割したことが考えられます。更に既定のページ内に収まるように幾らか行間を狭めていることが資料1の写真との比較からわかります。原典の雰囲気を損なわない範囲で、書写されて収載されたのでしょうか。

なお、この「ゑんありて……」の遺筆は南勢州飯高郡の浄林寺の立寛比丘が編んだ『応化菩薩辞世帖(おうげぼさつじせいちょう)』にも収められており、浅草寺から刊行された『玉露童女追悼集 1』(参考文献に登場)の巻末でその写真を見ることができます。『応化菩薩辞世帖』はページ中央で内向きに二つ折りされ、和綴じの跡は見受けられません。資料1の写真と比較しても行間はまったく一緒です。『応化菩薩辞世帖』内収載の書状には向かって左端上に「送二侍婢詠」と縦に記されています。資料1の半紙二つ折りの書状及び『視聴草』掲載分にそのような解説はなく、また『応化菩薩辞世帖』内の他の書状にも同一筆跡で詠まれた歌の宛先の解説となる情報が記されていることから、恐らく立寛比丘が記したものと考えられます。

資料1の原典情報の詳細はネット上公開されていないため、これ以上知り得ることはできませんが「内閣書庫」の押印跡があることから、恐らく露姫の自筆そのものであったと推測されます。
 
<図・資料>
図1 幼女遺筆 楷書に書き起こしたもの(長原作図)
資料1 幼女遺筆(手紙)
国立公文書館デジタルアーカイブ
https://www.digital.archives.go.jp/gallery/0000000064
<引用・参考文献>
※1 服部 遜 謹撰(1824)『玉露童女行状 全』牛島弘福禅寺蔵板,
「むとせの夢」
国文学研究資料館 新日本古典籍総合データベース, 21コマ
https://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/200023937/
※2 前掲書1 25コマ
※3 玉露童女追悼集刊行会(1988)『玉露童女追悼集 1』金龍山浅草寺, 附録2『玉露童女行状 全』「むとせの夢」, p.172 
※4 Lana-Peaceエッセイ
「我が子17名との死別後、新たな命を守る父の覚悟」 長原恵子 
※5 中村元ほか編(2012)『岩波 仏教事典』第二版, 岩波書店, p.94
※6 前掲ウェブサイト4
 

たとえ臨終間際に言葉を交わすことができなかったとしても、亡きお子さんからのメッセージはきっとどこかにあるはずです。それは言葉であったり、絵であったり、あるいは家族にしかわからないサインであったり。何とか思いが伝わりますように……とお子さんは願っているのだろうと思います。

2023/5/28 長原恵子
 
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