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垣ノ島B遺跡 9,000年前の墓から出土した漆製品
(北海道函館市 蔵)
 
品名:
土坑墓より出土した漆製品
 
南茅部町埋蔵文化財調査団(2002)
『垣ノ島B遺跡 (南茅部町埋蔵文化財調査団報告書 ; 第10輯』口絵「漆製品出土状況(全体)」より引用
出土:
北海道函館市 垣ノ島B遺跡
時代:
縄文時代早期前半, 約9,000年前
所蔵先:
北海道・函館市
展示会場:
2018/5 函館市縄文文化交流センター 常設展
 

先日、こちらで北海道函館市の垣ノ島A遺跡から見つかった足形付土版のご紹介をいたしましたが、今日は垣ノ島川を挟んで右岸の垣ノ島B遺跡から出土した漆製品のお話を取り上げたいと思います。

垣ノ島B遺跡ではIII層より竪穴住居跡、土坑他遺物などが見つかりましたが更に駒ヶ岳起源の火山灰層を除去してV層に到達すると、5基の竪穴住居跡、162の土坑が発見され、平成12(2000)年8月、土坑の中でもP-97から漆に関連した遺物が発見された(※1)のです
報告書の中にあったP-97の図にこちらで赤字で部位名称を加えたものを載せておきます。

土坑墓の大きさは1.4×1.2mで深さは0.6m、土坑墓の四辺のそれぞれ中央付近には小さな土坑がありました。これは柱穴と考えられています。土坑墓を雨や日差しから守るため、お墓の上には小さな小屋が建てられていたのでしょうか? ここから、当時埋葬されていた人が着用していたと考えられる漆製品の痕跡が見つかりました。遺骨は出土していませんが、頭部や腹部にあたる箇所で見つかった粘性のある黒色土は遺体層だと確認され、頭部を南西に、そして両足を北東に向けた仰臥屈葬として葬られたことが判明しました。

土坑底の写真(本ページ最初)を見ると、底面全体は黄土色ですが、土坑の上方から中央にかけてある黒っぽい部分は、まるで人の上半身を表しているかのようです。赤黒い塊は漆製品の痕跡で、頭部、両肩、両腕、両足に相当する箇所と考えられています。左の写真は函館縄文文化交流センターに展示されていた埋葬当時の予想図です。
漆製品が左右の肩、手首、すねをシンメトリーに飾り、そして赤い紐は髪をきれいにまとめ上げるために一役買っています。こちらの漆製品の場所、まるで東洋医学の経穴・経絡の要所、要所を押さえた場所のように思えてきます。

それでは各箇所を詳しく見てみましょう。いずれも南茅部町埋蔵文化財調査団から発表された『垣ノ島B遺跡 (南茅部町埋蔵文化財調査団報告書』第10輯に基づく内容(※2)となります。

■漆製品のあった部位
<頭部>
頭頂部は数本の漆の糸を一組にして、髪をお供え餅状に束ねるために使用していたと判明しました。後頭部に相当するところでは欠損があるため正確な形状は不明であるものの、織物状に見える部分もあったそうです。

<肩と腕>
左肩と右肩の間隔は約40cmあったそうですから、埋葬された人の身長は150cm以上はあったのでしょう。左上腕部は特に保存状態が良かったところですが、長さ14cm、幅約12cm四方で緯糸(よこいと)が密に連続した状態で漆がみつかりました。両端には、経糸(たていと)のように見えるところもあり編布に非常によく類似していると言われています。
そして左肩の緯糸の上に小玉のような漆が検出されました。また、左肩の右上には長さ約3cm、幅約1cmの頁岩のフレイク(石片)が一点見つかりました。

右肩も緯糸が密に連続していました。また腹部のあたりで見つかった左右の腕輪らしきものの様子から、右腕を上にして埋葬されたと考えられています。

<足>
足の部分は出土の中でも最も大きく、長さ45cm、幅は約25cmありました。足にあたる箇所の漆は二層に分かれて出土し、上層では黒色土と漆の小さな多数の塊が、下層では両肩でみられたような緯糸が一部確認されました。足を重ねていたと考えられています。

■年代測定
頭部にあたる黒色の遺体層から土壌付の漆と黒色の土壌を1点ずつサンプルとして提出し、放射性炭素による年代測定(AMS)が行われました。その結果、暦年代補正値で土壌付の漆は7040B.C.、黒色の土壌は7070B.C.(※3)と判明したのでした。つまり約9000年前に人が漆の飾りを伴って埋葬されていたということになります。

■漆糸の構造
2本一組の軸糸に細い紐状の素材をコイル状に巻き付けた構造で漆が塗り重ねられ、赤色の漆塗り糸を緯糸として編布のように編み、飾りとして使用していたと考えられています。そしてここで経糸がはっきり残っていないのは、経糸に漆を塗られていなかったためと考えられているそうです(※4)。下記の写真は出土物の写真の拡大図です。とても9000年前のものだとは思えないほど活き活きとした生命感が伝わってくるようです。

 
写真3:装飾品の細部 2.7x

■漆の採取と加工
2018年5月に函館市縄文文化交流センターを訪れた時、この土坑墓坑底のレプリカを初めて見たのですが、大変衝撃的でした。報告書に掲載されていた口絵写真よりは展示レプリカはグレーが強く、薄暗い感じでしたが、縄文時代の人々がわざわざ漆加工をした糸を用意し、それを元に飾りを作ったという事実、そしてそれが現代の世の中まで残っていたという事実に圧倒されました。9000年も前の時代に、漆を手に入れて加工することはどれほど大変だったことでしょう。当時の叡智と膨大な労力の集結は本当に素晴らしいことだと思いました。

漆製品を作る時、その材料から集めなければいけません。まずウルシノキの樹皮に傷をつけ、滲出する漆液を集める作業「漆掻き(うるしかき)」を行います。しかしそれは単に幹に傷をつければ、漆液が容易に手に入るというわけではありません。内樹皮にある乳管から漆液が出るため、まず外樹皮の凹凸を削り、次に外樹皮・内樹皮に溝のような削り傷をつけ、滲み出てきた漆液を掻き出します。現代では用途に応じた特殊な形の刃物・道具が作られ、用いられていますが、9000年も前の時代ではきっとナイフ形石器を様々に駆使し、土器に漆液を集めて溜めていったのだろうと思います。樹液を集める時も刺激性の強い漆液に触れないよう、しっかりした土器と密閉性の高い蓋が作られたことでしょう。

そうしてようやく集められた漆液も、まだ水分量が多い生漆(きうるし)の状態であるため、そのまま使えるわけではありません。そのため余分な水分を抜くクロメ(黒目)という作業が行われます。弱く加熱して水分を飛ばし、クロメ漆が得られます。焚火の火加減調整は、随分気を遣う作業だったことでしょう。そして赤色の漆を必要とする時は、ここに赤色酸化鉄(ベンガラ)や赤色硫化水銀(朱)といった赤色顔料が混和されます。

■ベンガラ
垣ノ島B遺跡の漆製品に用いられている赤色顔料はすべてがベンガラ(赤色酸化鉄)でした。パイプ状ベンガラが多く認められ、発色良好な良質なものと判明しました(※5)。垣ノ島B遺跡の包含層からは49箇所の焼土が検出されています。そのうち15箇所の焼土から1〜2cm粒ほどの橙色化したベンガラ原石が出土しましたが、ベンガラを発色させるために焼いたためと考えられる(※6)そうです。

右は赤色顔料(ベンガラ)と顔料のついた石皿です。垣ノ島遺跡出土ではありませんし、時代ももっと古いものですが、参考までに取り上げておきます。北海道千歳市の柏台1遺跡から出土した2万7000年前のベンガラと石皿です。2018年6月に訪れた東京・上野の国立科学博物館に展示されていました。

垣ノ島B遺跡でもこのようにしてベンガラを石皿を用いて擦り、粉末を得て着色に利用していたのでしょうか?

■漆かぶれと「特別な人」
漆と言えばやはり「かぶれ」が気になるところです。これは「ウルシオール」に対するアレルギー性接触性皮膚炎であり、アメリカ皮膚科学会の発表よると85%の人々がウルシオールによるアレルギーがある(※7)と言われています。私は漆とは全員かぶれるものだと思っていたのですが、中にはかぶれない人もいるわけですね。この数字を見ると、100人のうち15人は漆にかぶれない、ということになります。永嶋正春氏は「縄文時代に置いては、恐らく漆にまったくかぶれることのない人びとだけが、漆の栽培管理、樹液の採取、漆製品の製作に携わったであろうと思われる。或いは漆製品を用いた祭事も司っていたかもしれない。」(※8)と記されていました。確かに「かぶれない人」は特別な存在だったことでしょう。ほとんど多くの人がダメージを受ける漆であるはずなのに、無傷でいられる人もいる。その差に人々は何か驚異的な力の差を感じていたかもしれません。

■漆に寄せられた期待
また漆かぶれは強烈な掻痒感や皮膚症状をもたらします。健康な皮膚にそのような変化をもたらすウルシノキに対して、人々は畏怖の念や神性を感じていたことでしょう。ウルシノキにとって漆液とは、樹勢の活発な夏場を中心に虫や傷から身を守り、成長を維持するために分泌されるのだそうです。つまり漆液とは敵に対してとても大きな防御や破壊力や変化をもたらす力を備えているわけです。そうした働きは人々に大きなインパクトを与えるとともに、期待も寄せられていたのではないでしょうか? 例えば目に見えない敵さえも寄せ付けない力、すなわち死者を脅かす邪悪なものを漆が撃退してくれる、といった発想が当時の人々にはあったのでは? 頭、肩、腕、足、その漆製品の見つかった場所を線で結んでみると、埋葬された人全体を守るバリアのような枠ができます。死後、いつまでも安らかに穏やかな時間が過ごせるように……といった願いがこめられていたように思います。つまり9, 000年前の人々は「死」は「終わり」を意味するものではなく、死後の世界の存在を認識していたからこそ、こうした漆製品による装飾で死者を守ったのだと思うのです。もちろん貴重な製作工程を経る漆製品を大量に用意することはできません。それゆえその集団の中での中心人物に使用が限られていたのかもしれないのですが……。

 
<参考ウェブサイト・参考/引用文献・資料>
※1 南茅部町埋蔵文化財調査団(2002)『垣ノ島B遺跡 (南茅部町埋蔵文化財調査団報告書』, 第10輯), p.7
※2 前掲書1, pp.62-64
※3 坪井 睦美「遺跡速報 垣ノ島B遺跡の漆製品」(2001)考古学ジャーナル, (479) (臨増) p.29
※4 阿部千春「漆文化のあけぼの 垣ノ島B遺跡の漆塗り糸」 佐々木馨 監修『図説函館・渡島・檜山の歴史 (北海道の歴史シリーズ)』 郷土出版社, pp.24-25
※5 永嶋正春「垣ノ島B遺跡土壙墓(P-97)出土漆様装飾品と赤色顔料について」前掲書1, p. 104
※6 前掲書1, p.76
※7 American Academy of Dermatology,"Treating poison ivy: Ease the itch with tips from dermatologists", 04 April 2014
※8 永嶋正春「縄文時代のケミカルライフ(2)縄文時代にさかのぼる漆技術―漆からわかる生活と文化」(1999)化学54(11), p.52
 
坪井 睦美「遺跡速報 垣ノ島B遺跡の漆製品」(2001)考古学ジャーナル, (479) (臨増) pp.26-29
永嶋正春「縄文時代のケミカルライフ(2)縄文時代にさかのぼる漆技術―漆からわかる生活と文化」(1999)化学54(11), pp.50-52
函館市教育委員会 編(2017)『史跡垣ノ島遺跡』. 函館市教育委員会
 
<図>
図1 土坑墓P-97 出土時概要, 前掲書1, p.63の図を引用、赤字にて部位名当方追記
 
<引用写真>
写真1 漆製品着用の想像図(2018/5,函館市縄文文化交流センター, 常設展示物 当方撮影)
写真2 左肩・上腕部分とフレイク1点, 前掲書1, 口絵写真より
写真3 装飾品の細部 2.7x, 前掲書1, p.105
写真4 ベンガラと石皿, 柏台1遺跡(2018/6,東京 国立科学博物館, 常設展示物 当方撮影)
 
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2018/10/7  長原恵子