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アート・歴史から考える死生観とグリーフケア
臼尻B遺跡 大人の足元に寄り添う4,000年前のこども
(北海道函館市)
 
品名:
土坑墓より出土した人骨
 
臼尻B遺跡(函館市 大船遺跡管理棟展示パネルより)
出土:
北海道函館市 臼尻B遺跡
時代:
縄文時代中期末(約4,000年前)
 

2018年5月、北海道函館市の大船遺跡を訪れた時、遺跡そばの大船遺跡管理棟内に同じく函館市の臼尻B遺跡に関する解説展示パネルが設置されていました。大きなパネルに出されていた写真、それは遺跡から発掘された2体の人骨でした。大きい人骨と小さい人骨。寄り添うように埋葬されていたその人骨の写真はまるで語りかけているかのようでした。臼尻B遺跡は見学可能な遺跡ではないけれども、気になったので後日、国会図書館で臼尻B遺跡の資料を探してみました。しかし十分ではなかったので、東京国立博物館の資料館へ足を伸ばしてみると、報告書がたくさん保管されていて、ようやく臼尻B遺跡の様子がわかってきました。

臼尻B遺跡は市立臼尻小学校の敷地北東から渡島半島の海岸沿いの恵山国道に向かった辺りに位置します。函館市臼尻町はいくつも遺跡が確認されており、垣ノ島遺跡、臼尻A, B, C, D遺跡、電電公社遺跡、臼尻小学校遺跡……1980年の報告書によると臼尻B遺跡の周囲には85もの遺跡が存在しているそうです。臼尻B遺跡は標高30-50mほどの低位海岸段丘に存在し、背後に山々、目真には噴火湾が広がります。海と山の幸を得られる台地は、古き人々にとっても住みやすい土地だったわけですね。

臼尻B遺跡は複数年にかけて様々な住居址や土坑、遺物等が見つかりましたが、このうち人骨が出土したのは昭和53(1978)年5月、国庫補助事業第三次発掘調査の最中でした。住居址第10号(HP-10)(写真1)、こちらは角が丸い長方形の床面で7.3×4.3m、柱址7本と地床炉の他に周溝も築かれていました。この床面に深さ2mのフラスコのような形の穴(土坑:Pit-1)が掘られており、そこから人骨2体分と多数のサイベ沢VII式土器片、大量の貝類、魚骨、獣骨等が発見されたのです。

■人骨
大きい人骨は身長約150cm前後、頭蓋各部の特徴や四肢長骨の繊細さから女性と判断されました。大部分の報告書では壮年期と記されていましたが、唯一1979年の報告書の中では25歳前後と明記されていました(※1)。そしてこどもの人骨は永久歯の萌出・埋没の状態から、7歳相当だと分かりました(※2)。二人がすぐそばに埋葬されていたことから、非常に近い血縁関係にあった可能性が考えられ(※3)、二人の骨と歯を試料として、ミトコンドリアDNA(mtDNA)多型を利用した血縁鑑定が行われました。成人女性は右大腿骨の一部と右下第一・第二大臼歯、右下第二小臼歯が、小児は右下、左下、右上第二乳臼歯が用いられました。論文が発表された2002年時点では試料本来の塩基配列を確実に決定できていないため、血縁関係の有無を論議するにはかなり無理があるものの、分かっている範囲内の諸要素から考えると両者は親子、あるいはオバ・オイ・もしくはメイの関係にあると考えられる(※4)という結論になったそうです。

女性はうつむき加減で両肘を曲げ、踵がお尻につくくらい両膝を強く曲げています。その足元にこどもの人骨が横になっていました。図1は二人の埋葬されていたPit-1全体を上から見たものとなります。Pit-1の底面は二人の頭の方向を同じにして横並びに埋葬することが可能な広さがありました。しかしこどもは女性の折り曲げた膝下から足首にかけて平行になるような位置で埋葬されています。まるで女性の足元、骨盤の方に顔が向くように。この女性が母であったならば、再び母の子宮へと戻って生まれ出る、そういった思いを込めて、埋葬されたのではないでしょうか?女性、こども両者の人骨が出土した時、共に両手を顎の下で組み合わせていた(※5)そうです。二人とも祈るような姿勢で葬られたのは、この二人を葬った人々の思いが強く介在しているように感じられます。

■土器
カラー写真上、女性の額のかかるように写っているこげ茶色の塊はサイベ沢VII式土器です。この土器が決め手となり、二人が埋葬された時代は約4,000年前(縄文中期末)(※6)と判明しました。図2, 3はこの土器の図柄が記録されたものです。土器の底部を欠いているものの、高さ約50cm、口径35cmの大型の深鉢には弧を描く模様がありました。これは細い粘土紐による隆帯だそうです。丁度口縁部の山の下側から幾筋かの隆帯がだんだん広がっていく様子は、まるで噴火湾の波が臼尻の岸に打ち寄せる様子を表したかのようです。小さい楕円の集まりのように見える羽状(うじょう)縄文は、こちらも波間に見え隠れする小さな泡のようです。繰り返される海の波、それは永遠性の象徴なのかもしれません。そして小さな水の泡は消えても、いつのまにかまた、いくつも波の中に生まれています。そうした自然の営みに、人々は死者の命の永遠性を重ね合わせて深鉢に図柄を施したのだろうかと想像します。

図2:HP-10 Pit-1から人骨と共に
見つかった土器
図3:図2の拡大図

■死後の生を支える物?
このフラスコ状土坑Pit-1から大量の貝、魚骨、獣骨が見つかっています(写真2)。その地域の人々の食料廃棄に使われた貝塚というよりは、二人の死後の生を信じ、願って、二人のために食料となる貝、魚、動物を一緒に備えて埋葬されたのではないかと思います。
住居址第10号の床面すぐ上は、発掘時に極めて多量の炭化物が一面に折り重なって散乱しており、床面は焼けて赤色になっていたそうです。そのため埋葬後、住居の上部構造物が焼け落ちた(※7)と考えられています。またそれが単なる火災というわけではなく、葬った後に家屋を焼き払う特異な葬送方法がとられた事も想定し得る(※8)のだそうです。

写真2:住居跡第10号 Pit-1から出土した貝・魚骨・獣骨
 
この他、臼尻B遺跡からは当時の人々の精神性が伝わる遺物がいくつも出土しています。

■死者を弔う漆のかんざし
臼尻B遺跡の土坑(UP-10)(写真3)からは漆が見つかっています。入口部分は110×105cm、底面は95×85cm、深さは55cmあったこの土坑、底面には石が置かれた状態になっていました(写真4)。大小不揃いでありながら、厚さはほぼ均一な石が91個、3段階に敷き込まれていたのでした。人骨は見つかっていませんが、こうした敷石の特徴からお墓であったと考えられています。この配石の最上段の中央北側から、極めて少量の漆が確認されました。ここに埋葬されていた人の副葬品のかんざしと推定されています(※9)

写真3:土坑(UP-10) 全景
図4:土坑(UP-10) 配石の様子

臼尻B遺跡近くの垣ノ島B遺跡の土坑墓(縄文時代早期前半, 約9,000年前)からも漆を用いた衣服・頭髪の装飾品が見つかっています。臼尻B遺跡の土坑UP-10は縄文時代中期末と言われていますから、数千年に渡ってこの辺りでは死者の弔いに漆が欠かせなかった、というわけですね。

■シカの絵模様の深鉢
臼尻B遺跡からはシカの絵が線刻された土器が見つかっています。これは住居址第294号の覆土中部層(X2層)からまとまって見つかった4個の土器のうちの1つです。函館市縄文文化交流センターに展示されていました(写真4, 5)

土器は大型深鉢で復元推定された高さは47cm、口径は38cmで、シカの体長は5.7cm、高さ4.3cmです。立派な角を持つことから雄シカの姿と考えられています。シカの上に描かれていた細長い楕円、これは罠(Trap)の穴(pit)のことで、Tピットと呼ばれています。Tピットは深く掘り込まれた落とし穴で、大人の腰くらいまで深さがあります。このTピット方向に向かって人間が動物を追いかけ、そこに落ちた動物を捕獲する追い込み猟に使われたと考えられています。シカの土器のほかに小型土器、石鏃、スクレーパー、石製円盤、岩偶、石製品、磨製石斧、擦石、石棒、砥石なども見つかりました。

写真4:シカ絵画土器
写真5:シカ絵画土器(拡大)
 
図5:深鉢のシカの模様(住居址第294号から出土)

深鉢に描かれたシカ。それは一体何を意味するのでしょうか?そのヒントとして考えてみたいのが、福岡県福岡市の吉武高木遺跡から見つかったシカの線刻された甕棺第112号です。弥生時代の有力者の墓とみられ、2つの甕の口を合わせて棺として用いたうち、下甕の口縁部近くに2頭のシカが上下に描かれていました。上には枝分かれした角をもつ雄ジカが頭を右に向け、下には枝分かれが認められない1本の線で角が描かれたシカが頭を左に向けています。毎年生えかわるシカの角に再生力の力強さを見出し、人々はその力にあやかろうとしたのでしょうか?「死者は祖霊の仲間入りをし、祖霊はふたたび新たな生命として生まれ変わるという再生観であり、甕棺に刻まれたシカには、世を去った者への鎮魂と再生への思いが込められている」(※10)という考えもあるそうです。
臼尻B遺跡の深鉢のシカはわざわざ、落とし穴の絵まで描かれています。再生や循環の象徴であるシカは元気に野山を駆け回り、なかなか得難いものであったけれども、落とし穴を用いた追い込み猟をすれば手に入れることができるということ、それは死からの再生、という難題を叶えたいという人々の思いの反映に通じるのかもしれません。

 
<参考ウェブサイト・参考/引用文献・資料>
※1 南茅部町教育委員会 (1979) 『臼尻B遺跡発掘調査報告 宅地造成に伴う国庫補助事業による第3次発掘調査』南茅部町教育委員会, p.106
※2 百々幸雄, 山口敏(1980)「臼尻B遺跡第10号住居址より発見された人骨について」『臼尻B遺跡 北海道茅部郡南茅部町における縄文時代中期集落の調査』北海道南茅部町教育委員会 , p.117
※3 前掲書2, p.117
※4 安達登,百々幸雄(2002)「北海道南茅部郡南茅部町・臼尻B遺跡第10号住居址より発見された合葬人骨の血縁鑑定」『DNA多型 v.10』東洋書店, p. 128
※5 前掲書1, p.106
※6 前掲書2, p.117
※7 前掲書1, p.7
※8 前掲書1, p.106
※9 小林幸雄(2007)「函館市臼尻B遺跡出土漆製品の材質と技法」『北海道開拓記念館研究紀要』 (35), 北海道開拓記念館, p.12
※10 国史跡吉武高木遺跡 やよいの風公園(福岡市経済観光文化局 文化財活用部 文化財活用課)
 
<図>
図1 住居跡第10号 Pit-1の全体像
南茅部町教育委員会(1979)『臼尻B遺跡発掘調査報告 宅地造成に伴う国庫補助事業による第3次発掘調査』南茅部町教育委員会, p.13
図2,3 住居跡第10号 Pit-1から人骨と共に見つかった土器
小笠原忠久・藤田登・松岡幸子・松岡達郎(1980)『臼尻B遺跡 北海道茅部郡南茅部町における縄文時代中期集落の調査』北海道南茅部町教育委員会 , p.109より引用
図4 土坑(UP-10) 配石の様子
小笠原忠久・藤田登・松岡幸子・松岡達郎(1980)『臼尻B遺跡 北海道茅部郡南茅部町における縄文時代中期集落の調査』北海道南茅部町教育委員会 p.79より引用
図5 深鉢のシカの模様(住居址第294号から出土)
北海道南茅部町教育委員会編(1987)『縄文時代中期集落の発掘調査報告書』南茅部町教育委員会, p.22より引用
 
<引用写真>
写真1 写真1:臼尻B遺跡 住居址第10号
南茅部町教育委員会 (1979)『臼尻B遺跡発掘調査報告 宅地造成に伴う国庫補助事業による第3次発掘調査』南茅部町教育委員会, 図版6より引用
写真2 住居跡第10号 Pit-1から出土した貝・魚骨・獣骨
南茅部町教育委員会 (1979)『臼尻B遺跡発掘調査報告 宅地造成に伴う国庫補助事業による第3次発掘調査』南茅部町教育委員会, 図版64より引用
写真3 土坑(UP-10)全景
小笠原忠久・藤田登・松岡幸子・松岡達郎(1980)『臼尻B遺跡 北海道茅部郡南茅部町における縄文時代中期集落の調査』北海道南茅部町教育委員会, 図版13より引用
写真4 シカ絵画土器, 臼尻B遺跡,縄文時代中期,函館市指定文化財, 函館市縄文文化交流センター展示, 2018/5当方撮影
写真5 シカ絵画土器, 臼尻B遺跡,縄文時代中期,函館市指定文化財, 函館市縄文文化交流センター展示, 2018/5当方撮影
 
<参考文献>
南茅部町教育委員会(1978)『臼尻B遺跡発掘調査概報 宅地造成に伴う国庫補助事業による第2次発掘調査』南茅部町教育委員会
南茅部町教育委員会(1979)『臼尻B遺跡発掘調査報告 宅地造成に伴う国庫補助事業による第3次発掘調査』南茅部町教育委員会
小笠原忠久・藤田登・松岡幸子・松岡達郎(1980)『臼尻B遺跡 北海道茅部郡南茅部町における縄文時代中期集落の調査』北海道南茅部町教育委員会
百々幸雄, 山口敏(1980)「臼尻B遺跡第10号住居址より発見された人骨について」『臼尻B遺跡 北海道茅部郡南茅部町における縄文時代中期集落の調査』北海道南茅部町教育委員会
北海道南茅部町教育委員会編(1985)『臼尻B遺跡 Vol.5 縄文時代中期集落跡の発掘調査報告』南茅部町教育委員会
北海道南茅部町教育委員会編(1987)『縄文時代中期集落の発掘調査報告書』南茅部町教育委員会
安達登, 百々幸雄(2002)「北海道南茅部郡南茅部町・臼尻B遺跡第10号住居址より発見された合葬人骨の血縁鑑定」『DNA多型 v.10』東洋書店, pp. 124-128
小林幸雄(2007)「函館市臼尻B遺跡出土漆製品の材質と技法」北海道開拓記念館研究紀要 (35), pp.11-24
 
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2019/1/15  長原恵子