早産で逝った赤ちゃんの長き命
(青森県上北郡東北町 古屋敷貝塚) |
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青森県小川原湖に近い縄文時代の古屋敷貝塚の2号遺構から、ホタテ貝と共に葬られていた20歳前後の女性の人骨が出土しました(※1)。そこから発掘現場内を3区画ほど北上したところに、直径約1.7m前後、深さ1.55mの遺構が見つかりました(6号遺構)。ここからは炭化物を含む暗褐色土と多量の木目状撚糸文の土器、そして少量のホタテ貝が出土しました(※2)が、6号遺構の西側、少し離れたところから3個の円筒土器下層d式土器が発見され、その内の1個に縄文時代前期後葉の人骨が収められていることがわかりました(※3)。 |
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土器の中の骨は先の2号遺構の人骨と共に、1982年9月、上北町(後に2005年東北町として合併)教育委員会から、聖マリアンナ医科大学解剖学の森本岩太郎教授(当時)へ調査が委嘱されました。その結果、土器の中の人骨の総重量は約50g、妊娠後半期、恐らく7-8カ月と考えられる胎児の骨1名分であることが判明しました(※4)。おおよそ全身の骨格が揃っており、上下顎の乳切歯の歯冠が既にほぼ形成されていました。早産で生まれた赤ちゃんは母体と繋がっていた臍帯から切り離され、一生懸命息をしようとしたことでしょう。でもまだ在胎7-8か月ですから、肺胞をしっかり膨らませるために必要なサーファクタントと呼ばれる物質が十分分泌されていません。うまく酸素を取り込むことができなかったはずです。現代に生まれていれば救われ、生き長らえることができたであろう早産の赤ちゃん。でも数千年前ですから、NICUもなければ、保育器もない。この子は十分息をすることができず、生まれて間もなく力尽き、母親の腕の中で逝ったのでしょう。
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報告書の中には右側を下にして下肢を強く曲げた状態の埋葬時の図が、掲載されていました。そして赤ちゃんの骨が平面に1つ1つきれいに並べられた状態の写真もありました。モノクロ写真の赤ちゃんの白い骨は小さくて、かわいらしくて、でも骨の形状は「これは肋骨、これは腕や足の骨……」とはっきり識別ができるほど、身体の特徴をしっかり残していました。「私は・僕は生きていたんだよ!」そう強く主張しているようでした。
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赤ちゃんはこの世の生を得ることはなかったけれども、こうして土の中で静かにひっそりと、その命の証を残し続けていました。きっとこの子を授かってから母親は、太平洋の内湾となっていた小川原湖の海の幸、そして陸地の山の幸から得た栄養をおなかの中の赤ちゃんに届け、赤ちゃんに語り掛け、大事に育んできた。この小さな骨の数々を見ていると、「お母さんのおなかの中で過ごせた時間、本当に充ち足りていたよ」赤ちゃんのそう話す声が聞こえてきそうです。
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6号遺構のそば、西側から見つかった赤ちゃんの骨、しかも早産で生まれた赤ちゃんの骨がなぜこんなにきれいな形のまま残っていたのでしょうか。赤ちゃんは土器に収められて地面の下に葬られていたことから、獣に容易に荒らされることはなかったのでしょう。また6号遺構の近くに貝塚や骨塚があったことから、赤ちゃんの葬られた辺りも土壌の酸性度が緩衝されたことが理由だと考えられます。
土器の中からはその他、副葬品とみられるようなものが見つかったとは書かれていません。それでも土器にわざわざ収めて埋葬した、そこに親の思いが秘められているように思います。当時、冷水域のホタテ貝が小川原湖に棲息していたということを考えると、この辺りの気候は熱帯だったわけではなく、一年の中で寒さを感じる時期が必ずあったはずです。日の光が届かない土の中でも、どうかこの子の居場所を守り続けてくれますように……そういう願いを込めて土器に葬ったことでしょう。土器は赤ちゃんの小さなおうち。これまで過ごした母のおなかの代わりに、家族と過ごすはずだった家の代わりに、赤ちゃんにあたたかい寝床を用意したかった。そういうことなのだろうかと想像します。土器は6号遺構の底、地中の奥深くから見つかったのではなく、遺構のそば、地表に近い部分にありました。死後もできるだけ近くに感じていたい、そういう気持ちも反映されているのかもしれません。早産になった母親は出産の心身の疲労も十分癒えぬまま、こどもを亡くした現実を目の前にして、家族と共に赤ちゃんを葬ったのでしょう。今度はもうちょっとお腹の中でゆっくり過ごして、月満ち足りて生まれておいで。そう願いながら。
100歳も生きる人と比べたら、この早産で逝った赤ちゃんの人生はほんの一瞬であるけれども、こうして死後何千年にも渡り、その命の証を残し続けてきたという事実。それを知ると、長生きしたとか短命であったとか、そんな現世の時間軸では計りようもない、異なった質の命があるのではないかと思います。
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