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アート・歴史から考える死生観とグリーフケア |
あたたかい寝床に込められた亡き子への思い
(宮城県東松島市・里浜貝塚) |
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宮城県東松島市の宮戸島の里浜貝塚で平成10(1998)年、土器の中に埋葬されていた3000年前の赤ちゃんのお骨が見つかったことをこちら(※1)で取り上げましたが、里浜貝塚ではその80年ほど前の大正時代、初めて行われた学術的発掘調査により、こどもの埋葬跡が数例見つかっています。当時の親心や死生観が反映されているものなので、4回にわけてご紹介したいと思います。今日はその1回目となりますので明治時代まで遡り、里浜貝塚にまつわる話からまず見ていきたいと思います。そこには気骨溢れる活動力に充ちた先人の姿も垣間見えてきます。
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資料上、里浜貝塚の採掘軌跡を確認できるのは明治30年代に遡ります。それは大学考古学教室による発掘調査ではなく、一人の歯科医による個人的な採集活動でした。高島多米治氏(注1)が採集した里浜貝塚の遺物は現在国内数箇所の博物館や資料館で保管されており、写真1は大阪歴史博物館が所蔵する骨角器と土偶で、2019年7月に訪れた宮城県東松島市の奥松島縄文村歴史資料館の展示解説パネルに写真として登場していました。写真2は明治39(1906)年頃に里浜貝塚で高島氏が採集した腰飾り(辰馬考古資料館所蔵)の複製品で、同じく縄文村歴史資料館に展示されていました。彼の里浜貝塚での採集品は明治41(1908)年、日本で医師として活躍していたスコットランド出身のNeil
Gordon Munro氏の著書『Prehistoric
Japan』の中でも紹介されました(※2)。お互い異国で医療に携わる経験を持ち、考古学についても造詣深く、貝塚で発掘成果を上げているといった共通点からも、心が通い合うものがあったことでしょう。しかし里浜貝塚は依然として大学から調査対象として日の目が当たっていたわけではなかったのでした。それは高島氏の里浜貝塚の採集品の中に人骨が含まれていなかったからかもしれません。
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その後、時代は大正時代へと進みます。里浜貝塚のある宮戸島の中央部に位置する大高森(※注2)は観光客で賑わっていました。なぜならその頂上からの見事な眺めは、19世紀半ばに活躍した仙台藩の儒学者舟山萬年の『塩松勝譜(えんしょうしょうふ)』の中で「松島
四大観(しだいかん)」の一つ「壮観」に挙げられていたからです(※注3)。写真3は奥松島縄文村歴史資料館に展示されていた里浜貝塚の航空写真です。大高森の裾野から里浜貝塚の端まで凡そ直線距離で400mほどです。観光客の間で宮戸島には旧石器時代の遺物があると当時噂が広まっていましたが、これほど近くに日本屈指の貝塚があるとは、まだ明らかになっていなかったのでした。大高森の他に特に知られた観光名所があったわけでもなく、宮戸村は漁業を主とした村であったことがかえって長きに渡る里浜貝塚の保護につながったとも言えます。
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そんな中、大正7(1918)年夏、東北帝国大学理科大学(後の東北大学理学部)地質学教室の第一期生であり、講師となった早坂一郎先生(※注4)が偶然、宮戸島の中で里浜と呼ばれる場所に極めて厚い貝塚があることを発見し、崖から人骨の一片、イノシシの顎、鹿の角等を採取したのです。早坂先生は同様の貝塚が他にもあることを確認すると、同大学地質学教室講師で動物学、古生物学、考古学に詳しい松本彦七郎先生(写真5)と共に同年10月28日発掘を開始しました。調査エリアとして設定されたのは、早坂先生が夏に人骨片を見つけた崖のそば、長方形に約14坪(46平米)でした(※3)。寺下地点と呼ばれる場所です。写真6は里浜貝塚パンフレットに掲載されていた里浜貝塚周辺地図ですが、松本先生、早坂先生らが調査されたエリアを黄色の星で示してみました。拡大すると紫の長方形部分がその場所となります。ピンク色のエリアは後年明らかになった貝塚エリアです。
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調査は10日間連続で行われ、その後数回に渡り断続的調査が行われました。貝層と一旦崩れて沈殿した凝灰岩層とが交互に成す十層もの厚みは日本有数であり、ここから完全な人骨14体と不完全なものを含めて合計18体が見つかったのです。写真7は早坂先生が当時の発掘現場をご自身で撮影されたもので、早坂先生の著書『地と人』の中に登場します。奥松島縄文村歴史資料館内展示パネルにもありました。写真8は発掘の流れの中で13号人骨が発見される前に松本先生が描かれたスケッチです。『現代之科学』に投稿された「宮戸島里浜介塚人骨の埋葬状態(予報)」の169ページに登場し、国会図書館のマイクロフィッシュ資料で閲覧できるのですが、今一つ不鮮明なところがあるので、より鮮明な奥松島縄文村資料館の展示パネルを撮影したものを出しておきました。この見取り図に今回エッセイで取り上げる人骨の番号をこちらで付記しています。見取り図のため微細の精緻には欠き、少し大きく示し過ぎた人骨もあると松本先生は振り返ります(※4)が、当時の雰囲気がとてもよく伝わってくるものです。この場所は乱獲などから保護できるよう、地質学教室の学用地とされました。
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この発掘では我が国で初めて層位学的発掘が行われました。そして見つかった人骨をそのままの形で取り上げ、石膏をかけて固め、反転して持ち帰るといった斬新な方法も採られました(※5)。そのうちの1体が東北大学理学部博物館にありました。木の持つあたたかさと美しい欧風調度品の雰囲気が漂う展示ケースの中で、人骨は穏やかな永き眠りについていました(写真9)。
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18体の人骨の年代は発掘時に出土した土器の時代から、縄文晩期初頭から中葉に相当する(※6)と考えられています。写真10と11は大正8年調査で寺下地点から出土した縄文晩期の土器で、奥松島縄文村歴史資料館に展示されていました。土器の底面には「第十五号人骨ノ頭上二寸ニ正シク伏セテアリタリ 宮[」と出土場所と状況が朱書きされていました。頭上6cmほどの所に正しく、ということは何か意味を持って死者の頭上に伏せられていたということですね。
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表1は松本先生らの発掘から60数年経て、百々幸雄先生によって里浜貝塚出土の人骨頭蓋骨が計測された際、提示された里浜貝塚出土18体分の内訳一覧です。18体中、小児の人骨は3号、7号、8号、12号人骨です。今回は3、8号について見ていくことにします。
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■年齢層と姿勢
出土状況が最も詳しく記されていた松本先生の論文「宮戸島里浜介塚人骨の埋葬状態(予報)」(※7)を読み進めてみます。3号人骨は東40度南枕で身体は仰向けで顔も上向き、右上肢は身体に沿って真っすぐ伸ばしていました。8号は西40度北枕で身体は仰向けで顔は左を向いた状態で見つかりました。3号の左上肢と8号の両上肢は記録前に取り去られてしまったのでわかりません。そして2体とも胸部には酸化鉄由来の赤色顔料である丹が付着し、いずれも両下肢を揃え膝を折り曲げ、3号は右下、8号は左下にして屈葬の形をとっていました。論文内では股関節についての記載が見当たらないのですが、写真8を拡大した写真12と写真13から推測するには3号人骨は股関節はやや伸展気味で膝関節を強く屈曲させてふくらはぎを太腿に密着させるような形をとっています。8号人骨の下肢は明確に識別できませんが、骨盤左辺縁の下側に描かれている線状の部分を下肢だとみなすと、股関節と膝関節を共に強く屈曲し、骨盤部に引き寄せるような形をとっていたと考えられます。屈葬時の体長は3号は2尺2寸、8号は1尺8寸であり、cmに換算してみると(1尺=約30cm、1寸=約3cm)、3号は66cm、8号は54cmでした。これを文部科学省発表による平成27(2015)年の学校保健統計調査年次統計の平均座高(※8)と比較してみると3号の屈葬時の体長は現代の6-7歳児の平均座高に相当し、同様に8号は5歳未満の平均座高に相当することがわかります。ただ、前述のように3号人骨の屈葬の体長は膝までの長さも含まれていることを考えると、3号人骨も恐らく5歳未満の平均座高に相当してくるのではないかと思います。
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なお写真8と表1の中には含まれてはいませんが、8号人骨の北側のすぐそばに生まれて間もないと考えられる大きさの赤ちゃんの人骨1体分、東南側にもこどもと考えられる人骨1体分が見つかっています(※9)。見つかった時の骨の状態が悪かったためこれ以上詳しい情報はなく、番号としてカウントされていません。感染症や災害、事故などの理由によって同時期に3人のこどもが亡くなり、埋葬されたのでしょうか? 寄り添うかのように近くに埋葬された3人のこどもたち、せめて死後の世界で寂しい思いをすることなく、一緒に遊べますようにと祈りを込めて埋葬されたのではないかと思えてきます。
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■炭と灰
里浜貝塚で見つかった18体のうち、8号人骨を除き人骨の直下から炭と灰の層が見つかっています。炭と言っても木炭として想像される形を伴った炭ではなく、炭の粉末のように黒色を呈していたため炭と称されています(※10)。墳墓以外、調査エリアのいたるところから炭や灰の層が見つかりましたが、それらは人骨直下の層とは連続していないことから、貝塚の中の炭、灰の層と人骨が埋葬された墳墓の底面の炭、灰が同一の層を成していたとは考えられていません(※11)。
松本先生は「人骨直下に炭及び灰の層あるは新に墓穴を穿ちし際火を焚きてその灰燼を褥に死者を横へたるものならむ。」(※12)「墓穴の底に人骨の直下には灰乃至炭を敷詰めてある、」(※13)と記されていたのですが、この「褥(しとね)」「敷詰めてある」が当時の人々の行動背景を考える上でヒントになるように思います。「褥」とは人が横になる時に下に敷く物を指します。「敷詰めてある」ということは灰や炭が墓穴底に対して割合広い面積で見つかったと推測できます。 |
墓穴で火を焚くことは、松本先生らが発掘された大正7年当時もなお、東北の或る地方では存在する風習だったそうです(※14)。こうした風習が存在する理由について宗教思想等に基づき、生まれ、その地域に根付いていた伝統といった見方ができるかもしれません。例えば火の力によってその土地をより清らかな状態に変え、死者を埋葬しようとしたのでは?といったような考えです。しかし縄文晩期初頭から中葉の人々は、もっと人間の原点の素朴な感情に突き動かされていたのではないでしょうか。死後の生が墓穴の中で続く、と人々が考えていたならば、せめてここにあたたかい寝床を用意してあげたいと思う気持ちは自然に生まれる人情だろうと思います。そしてこれまで陽光の射し込むことのなかった土の中を掘り返して造った墓穴に、灰や炭のおかげでまさに薄い布団を敷いたかのような特別感を見出すことができたでしょう。これなら土の上に直に横になるよりはあたたかく、少し柔らかさを伴って寝心地は良くなるだろう、そんな風に思えたかもしれません。墓穴で火を焚くことはまさに遺族から死者への思いを具現化し、伝えるために必要な行動の一つだったのだろうと私は思います。
一方、灰や炭の層もない土の上に埋葬されていた8号人骨とその傍らの2人の幼子の場合、何らかの理由で止む負えず寝床をあたためる準備が整わなかったのかもしれません。例えば夏の暑い盛りにこどもたちが突然亡くなってしまい、しばらく長雨が続き、とても火を焚けるような状況ではない状況を仮定してみましょう。高い気温と湿度によってこどもたちの遺体の傷みが進んでしまう前に、何とか早くこどもたちが安らかに落ち着ける場所を求めたいと思ったならば、通常のやり方とは別の弔い方を選んだかもしれません。死後の変化、たとえそれが自然の摂理だと言っても、変わりゆくこどもの姿を見るほど親にとって苦しいことはないでしょうから…。
こどもを埋葬する前の墓穴で火を焚いた親、焚くことのできなかった親、数千年前のそれぞれの思いが伝わってくるようです。
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<注> |
注1 |
福井県出身の高島多米治(ためじ)氏は幕末から明治、大正、昭和を生きた歯科医です。若い頃、米国シアトルの竹細工職人に弟子入りするため渡米し、10年後には現地で歯科医の道を志してボルチモア歯科医学校で学び、ボストンで開業して診療にあたっていました。現地を来訪した伊藤博文の治療に関わったことがきっかけで、高島氏は明治35(1902)年4月、アメリカから日本に拠点を移しました(※15, 16)。日本帰国後は東京で診療や歯科医教育に携わっており、彼の執筆した歯科領域の専門書『歯冠継続及架工学』(※17)、『ポーセレンインレイ及キヤスチング』(※18)は国会図書館デジタルコレクションとして閲覧することができます。一方考古学について一愛好家といったレベルに収まらず、東京人類学会の会員たちが参加する貝塚発掘の「遠足会」に参加したり、独自の採取活動も行っていたのでした(※19)。高島氏が明治40年代初頭に発掘した千葉県の余山貝塚や茨城県の福田貝塚の人骨は、東京帝国大学医科大学解剖学教授であった小金井良精先生の研究対象として手元に渡っています(※20)。 |
注2 |
現在「大高森」と表記されていますが、早坂一郎先生の大正8(1919)年の論文「宮戸島先史住民概報」(『現代之科学』7(1),pp.26-41)内では「大鷹森」と表記されています。また大正15(1926)年頃の東北帝大医学部関係写真(※21)では「大鷹森頂上迄九丁」と書かれた看板が写っています。当時は「大鷹森」と表記されることが一般的であったと考えられます。 |
注3 |
舟山萬年は美しい塩釜・松島の風景を網羅した本がないことを憂い、20巻の大作『塩松勝譜(えんしょうしょうふ)』を執筆しました。その中で松島四大観をそれぞれ挙げたのです。彼は100回ほど松島に足を運んで書き上げたと伝わっており、多大な功績は宮城県によって明治41(1908)年刊行された『仙台藩人物叢誌』の中で「空前絶後ノ大著述ニシテ誠に鹽松勝景ノ全書ト謂フヘシ」「志ノ篤キ実ニ松島ノ真知己トナスヘシ」(※22)と絶賛されています。 |
注4 |
早坂一郎先生は古生物学分野での研究に尽力された方で、この後、鉱物・化石採集が趣味だった宮沢賢治が岩手県花巻市のイギリス海岸で採取したオオバタグルミの化石を鑑定し、論文発表されています(※23)。東北大学理学部自然史標本館には賢治の採取したオオバタグルミその実物(※写真14)と早坂一郎先生の論文の一部が2019年7月訪れた東北大学理学部自然史標本館に展示されていました(※写真15)。 |
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<引用文献・資料, ウェブサイト> |
※1 |
Lana-Peaceエッセイ 鹿角製垂飾品と共に眠った3000年前の赤ちゃん(宮城県東松島市・里浜貝塚)
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※2 |
宮城県文化財課HP 指定文化財〈重要文化財〉宮城県里浜貝塚出土品 |
※3 |
早坂一郎(1919)「宮戸島先史住民概報」『現代之科学』7(1), p.29 |
※4 |
松本彦七郎 (1919)「 宮戸島里浜介塚人骨の埋葬状態(予報)」『現代之科学』第7巻2号,
p.181 |
※5 |
会田容弘(2007)『松島湾の縄文カレンダー・里浜貝塚』新泉社, p.45 |
※6 |
前掲書5, p.45 |
※7 |
前掲書4, pp. 167-181 |
※8 |
文部科学省発表による平成27(2015)年の学校保健統計調査年次統計の平均座高 |
※9 |
前掲書4, p. 174 |
※10 |
前掲書4, p. 178 |
※11 |
前掲書4, p. 178 |
※12 |
前掲書4, p. 178 |
※13 |
松本彦七郎(1919)「陸前宮戸島の古人骨発掘につきて」『歴史と地理』3(1), p.12 |
※14 |
前掲書4, p. 178 |
※15 |
大野粛英ほか「「東郷元帥の入れ歯」
〜残された二つの入れ歯から製作歯科医を追う〜」『神奈川県歯科医師会第18回学術大会抄録プログラム』p.39 |
※16 |
日本歯科大学生命歯学部図書館所蔵書より
Rare Book紹介第28報 高島多米治『歯冠繼續及架工學 全』ほか |
※17 |
高島多米治『歯冠継続及架工學』日本歯科医学專門学校出版部 |
※18 |
高島多米治『ポーセレンインレイ及キヤスチング』日本歯科医学專門学校出版部 |
※19 |
加藤俊吾(2015)「第3節 高島多米治と余山貝塚」『共同研究成果報告書』9, p.9 |
※20 |
小金井
良精(1923)「日本石器時代人の埋葬状態(大正十一年十二月本会に於ける講演補正)」『人類学雜誌』38巻1号, p.27 |
※21 |
大正15(1926)年頃の東北帝大医学部関係写真 |
※22 |
宮城県編(1908)『仙台藩人物叢誌』宮城県,
p.48 30/41コマ |
※23 |
早坂一郎(1926)「岩手県花巻町産化石胡桃に就いて」『地学雑誌』第38集, 第444号,
pp.55-65 |
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<参考文献> |
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<表> |
表1 |
里浜貝塚出土人骨(大正7年出土) |
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百々幸雄(1981)「宮戸島里浜貝塚出土の縄文時代人頭蓋について
松本彦七郎博士発掘資料」『人類學雜誌』89巻3号,
p.284 表1 転載 |
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<写真> |
写真1 |
里浜貝塚 出土品 (奥松島縄文村歴史資料館・展示パネル) |
写真2 |
里浜貝塚 出土 腰飾り 複製品 (奥松島縄文村歴史資料館) |
写真3 |
里浜貝塚と大高森 (奥松島縄文村歴史資料館・展示パネル) |
写真4 |
大高森裾野付近から見た里浦 |
写真5 |
松本彦七郎先生 (奥松島縄文村歴史資料館・展示パネル) |
写真6 |
里浜貝塚 大正7年調査地点 (奥松島縄文村歴史資料館パンフレット画像に当方加筆加工) |
写真7 |
里浜貝塚 (『地と人』日本図書出版『地と人』P10-11の間の写真の解説 ページ番号なし) |
写真8 |
里浜貝塚発掘見取り図 (奥松島縄文村歴史資料館・展示パネル撮影写真に当方加筆加工) |
写真9 |
里浜貝塚出土人骨 (東北大学理学部博物館蔵) |
写真10 |
大正8年調査 里浜貝塚寺下地点 出土土器(縄文晩期)
(奥松島縄文村歴史資料館) |
写真11 |
写真10の底面朱書き |
写真12 |
里浜貝塚 3号人骨 (奥松島縄文村歴史資料館・展示パネル) |
写真13 |
里浜貝塚 8号人骨 (奥松島縄文村歴史資料館・展示パネル) |
写真14 |
宮沢賢治の発見した新生代第四紀のオオバタグルミ (東北大学理学部自然史標本館) |
写真15 |
早坂先生の論文展示
(東北大学理学部自然史標本館・展示パネル 早坂一郎(1926)「岩手県花巻町産化石胡桃に就いて」『地学雑誌』第38集, 第444号,
pp.55-65) |
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写真1-5,
8-15 2019/7 当方撮影 |
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写真6 奥松島縄文村歴史資料館パンフレット掲載図, 当方加筆加工 |
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写真8 奥松島縄文村歴史資料館展示パネル撮影, 当方加筆加工 |
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2020/5/10 長原恵子 |
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