死後も人々から愛され、幸せを願われた人
(宮城県東松島市・里浜貝塚) |
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大正7(1918)年、東北帝国大学の松本彦七郎先生、早坂一郎先生らによって宮城県東松島市の宮戸島の里浜貝塚で行われた発掘調査に関するお話、今日はその3回目です。里浜貝塚の中で北貝塚、寺下囲地点から出土した18体の人骨中、成人と小児が共に埋葬された例が見つかりました。写真1は発掘当時の現場を松本先生が描かれたスケッチです。第12号と名付けられたその一組の人骨は炭、灰の層の上に成人と小児が向かい合うように埋葬されていました(※1)。
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写真2は12号人骨のスケッチ部分を拡大したものです。
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第12号人骨の発掘の際、東京帝国大学理学部人類学教室の松村瞭先生も加わり、2体の合葬人骨は現地で石膏を用いて原状のまま固定装置が施され、東大人類学教室で保管されました(※2)(写真3)。
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合葬であった第12号の他に熟年男性の4号(全体的に右側を下にした屈葬)と9号(うつ伏せ)が現地で石膏詰めにされ、後者二例については早坂先生の論文内に図示されていましたので、4号人骨の例を紹介いたします(図1)。こちら(※3)で写真9として紹介した東北大学理学部博物館に展示されていた人骨が恐らく4号だと思われます。周囲の貝層は深く掘り下げられ、現地から運び出されたのでした。
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松村先生、早坂先生が行った当時の石膏保存の手順については、詳しい情報が記された論文に当たることができなかったのですが、後年の例として昭和43(1968)年、千葉県千葉市の加曾利貝塚で縄文中期の成年男性の屈葬人骨を保存処置された時の方法が樋口清治氏らの論文「遺構の取り上げ保存」(※4)に出ていました。60年ほど時代は下りますが保存現場の雰囲気を垣間見ることができます。ここでは現地で屈葬周囲を木の箱型の枠で囲み、樹脂強化した人骨に薄美濃紙を水貼りし、ホットメルト樹脂を流して被覆されました。更にその上から石膏を流して固定し、木枠周囲の地面を掘り下げ、切り離して木枠ごと天地を逆にします。そして露わになった部分に石膏を流して基台を作り、また天地を逆にして最初に表面を被覆した石膏と緩衝の役目を果たした樹脂や和紙を慎重に取り除きます。こうしたやり方では発掘時に露出していた側を同じように見ることができるということですね。松本先生、早坂先生、松村先生の時代は最初に露出していた部分に直接石膏をかけ、発掘時とは天地を逆にした状態で保管したということだと考えられます。松本先生が現地で描いたスケッチと石膏固定された人骨の写真が左右反転しているのはそのせいですね。同じ石膏と言っても時間と共にその方法は随分進化しています。
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■第12号人骨 成人男性 成人は老年の男性と考えられており、東30度南枕、顔も胴体も右側を下にして、左腕は胸の前方で肘を曲げ、向かい合う小児の頭上に手掌が置かれていました。まるで「良い子だね、大丈夫だよ。」と頭を優しく撫でるような仕草ですね。老年、ということですが後に東大から第12号人骨が寄託された国立科学博物館「みどり館メモリアル」の解説(※5)によると、この成人人骨の歯は殆ど抜け落ち、歯槽も塞がっているものの頭骨の縫合の閉鎖があまり進んでいないため、まだ初老の段階だったと考えられています。
松本先生が論文用の記録を書かれていた時点では、身体の下側に位置していた右上肢は未発掘で様子は明らかになっていなかったのですが、発掘が進むとこの老人の右前腕部には貝輪がはめられていたことがわかりました。それは石膏固定された松村先生が大正8(1919)年、沖縄県中頭郡の荻堂貝塚を発掘し、翌年発表された論文「琉球荻堂(おぎどう)貝塚」の中に登場します。荻堂貝塚から出土した貝輪の説明の中で、類例として里浜貝塚第12号男性が2個の孔があいた貝輪を身に着けていたことを挙げられていたのでした(※6)。残念ながら里浜貝塚のその貝輪の形状を示した図や大きさを示す情報はなく、写真3からもどれが腕輪であるか見分けがつきにくいのですが、貝輪ははめられたまま石膏で固定されたということですから、写真内のどこかに存在していることでしょう。松村先生はこうした例から「斯ノ如ク実例能ク之ヲ證スルガ故ニ貝環ヲ腕飾トシテモ使用スルコトアリシハ寸毫モ疑ヲ挟ムノ余地ナカルベキ」(※7)と述べられています。
12号男性の両下肢はきれいに揃えられ、右踵部が臀部に届くほど膝を強く折り曲げられていました。成人の屈身の長さは「踵迄」と注釈付きで三尺一寸、こちらは換算すると93cmです。写真より得られる座高と臀部から踵迄の比率を考え併せてみると、成人としては随分小柄な印象を受けます。
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■第12号人骨 小児 東30度南枕で胴は仰向け、頭は左下、両上肢は肩幅よりやや広げて真っすぐに伸ばし、膝を曲げた屈葬の状態で見つかりました。前掲の
国立科学博物館の「みどり館メモリアル」の解説(※8)によるとこどもの年齢は歯の生え方や四肢骨の関節部分のでき方等から、6歳未満前後と推定されています。屈身のままの長さは二尺五寸でした。現代風に言うと75cmです。
この小児の右耳には石製の小玉が乳様突起(※注1)(耳の後方にある骨の一部)に接触して、やや環状に8個並んでいたことがわかりました。これは松村先生からの説明によるもの、として解剖学者・人類学者の小金井良精先生が大正11(1922)年12月、東京人類学会本会で行った講演内で触れられており、「これは玉類の頸飾以外の一つの使用法である」(※9)と述べられています。
縄文時代の耳飾りとして知られているものは、耳たぶに開けた穴に厚みのある円形の大きなクッキーのような耳飾りをはめ込むタイプもあれば、前者よりは薄く大きな円形で切り込み部分が設けられ、そこから耳たぶの穴に通す玦(けつ)状耳飾りもあります。第12号人骨の小児の場合はこのどちらにも相当するわけではなく、耳たぶに小さな穴を開け、数珠状にした耳飾りをぶら下げるように身に着けていたのでしょう。
写真3の右下隅の小さな玉がそれではないかと思いますが、掲載されていた『人類先史、曙』の書籍の写真の拡大したものを載せてみましたが(写真4)、その詳細部分が分からないので残念です。この玉は東京大学総合研究博物館人類先史部門所蔵ですが、2020年6月現在、建物の耐震工事期間中で閉鎖のため、いつか見る機会があればなあと思います。
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■抱き合う二人 松本先生は二人の合葬について「その状小児を抱くが如し。」(※10)と記されていましたが、写真3の下方にある小児の頭蓋骨の後頭部下方から左右水平に2本の長骨が見えます。恐らく老年男性の右橈骨、尺骨ではないかと思われます。亡くなった2人のために墓穴を掘り、そこで火を焚いてあたたかい炭と灰の寝床を作り、死後硬直が起こる前に二人を向かい合わせにし、更に男性の右腕を腕枕としてこどもを抱きかかえるかのような腕の位置をとらせて埋葬したと考えられます。ということは、彼がこのこどもをとても愛し、慈しみ、大事にしていたことを周囲の人々が十分知っていたからでしょう。二人の関係性が父と子、祖父と孫、あるいは他の関係性があったのか、今となってはそれを知る術はありません。しかしながら何らかの理由で時を同じくして亡くなった二人を埋葬するにあたり、人々が「ずっとこれから一緒にいられますように」「こどもが守られ、安らかに過ごせますように」という願いを込めたことは強く伝わってきます。
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■第12号人骨と丹
里浜貝塚で見つかった人骨の中でこの12号の男性とこどもには際立つ特徴がありました。それは「赤色」です。発掘時、男性の頭部と腕、小児の胸部、腕、腰に赤色の付着が認められ、人骨付近の貝殻や土までもが赤く染みていた(※11)と松本先生の論文には記されています。古き時代、赤色を表現するためには赤鉄鉱の粉砕等により得ることができる酸化鉄由来の丹の他に、辰砂(硫化水銀)由来の朱もありましたが、松本先生の分析では鉄の反応が見られ、水銀の反応は見られなかったことからこの赤色は丹であると判定されました(※12)。骨が赤く染まっていた理由として松本先生は、二人を埋葬する際に丹が撒かれ、長い時間経過と共に遺体の柔軟な部分が分解・消失し、残った丹が骨に付着して染まった(※13)と解釈されています。写真3を見ると、頭蓋骨や上腕骨、肋骨の一部が褐色になっており、これがその名残と思われます。ただ、ここで留意すべき点が1つあります。それは現在石膏固定されて見ることのできる第12号人骨は「反転したもの」である点です。今、私たちが見ている部分は発掘当時は下側になっていた、すなわち墓穴底面に接していた部分であり、しかも現地で石膏固定されていることから松本先生が論文を執筆されていた時点では、直接目にすることができなかった部分だと言えます。松本先生らが当時目にした赤く染まった部分は石膏によって閉じ込められたということですね。
埋葬に赤色を用いることについて松本先生は「棺に納むる事は異なれども死者を朱詰めにする式は今尚ほ又は最近迄貴族乃至豪族階級の間に伝はれるなるべし。」(※14)と書かれており、大正時代でもそうした風習は一部の人々の間で受け継がれてきたことだったのでした。里浜貝塚からは内側に厚い酸化鉄を伴う土器の破片も多く見つかっており、早坂先生は当時の人々が褐鉄鉱等の材料を入手でき次第、日常的に丹を作って土器に入れて保管し、埋葬時に撒く際使用したと考えられています(※15)。
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以前、Lana-Peaceのエッセイ「9歳のこどもが胸に抱いた石」(※16)で取り上げた北海道虻田郡洞爺湖町の高砂貝塚では、縄文時代後期のG16号墳墓から右側頭骨にベンガラが付着した3-4歳の人骨が見つかりました。このこどもの足端部に土器が1個、更に足方の墓壙外に9個の円礫が配置され、その下部に1個土器が献供されていたのです。それらの土器は共に胴の半面がベンガラで染まっていたのでした。
亡き者を悼む時、赤色は再生への願いを重ねたものだと見る考え方がありますが、死から再びこの世へ蘇ることはないとわかって土の中へと埋葬したのであれば、その赤色は癒しの力、あるいは死後の生に対して活力を得る手段であったのかもしれません。二人寄り添うような姿勢で墓穴に横たえ、そこにふんだんに用いられた赤色は、死後の二人の幸せを願う里浜の人々の強い愛情の表れだと思うのです。
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<注> |
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<引用文献・資料, ウェブサイト> |
※1 |
松本彦七郎 (1919)「
宮戸島里浜介塚人骨の埋葬状態(予報)」『現代之科学』7(2), p.175 |
※2 |
松村瞭(1920)「琉球荻堂貝塚」『東京帝国大学理学部人類学教室研究報告』第3編, p.36 脚注2
(国立国会図書館デジタルコレクション25/66コマ) |
※3 |
Lana-Peaceエッセイ「あたたかい寝床に込められた亡き子への思い(縄文晩期初頭〜中葉)」(宮城県・里浜貝塚) |
※4 |
樋口 清治, 青木 繁夫(1976)「遺構の取り上げ保存」『保存科学』15, pp.92-93 |
※5 |
国立科学博物館公式ウェブサイト「みどり館メモリアル」縄文時代の合葬 |
※6 |
前掲書2, p.36(国立国会図書館デジタルコレクション25/66コマ) |
※7 |
前掲書2, p.36(国立国会図書館デジタルコレクション25/66コマ)
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※8 |
前掲ウェブサイト3 |
※9 |
小金井良精(1923)「日本石器時代人の埋葬状態(大正十一年十二月本会に於ける講演補正)」『人類学雜誌』38巻1号,
p.39 |
※10 |
前掲書1, p.175 |
※11 |
前掲書1, p.175 |
※12 |
前掲書1, p.178 |
※13 |
前掲書1, p.178 |
※14 |
前掲書1, p.179 |
※15 |
早坂一郎(1919)「宮戸島先史住民概報」『現代之科学』7(1), p.38 |
※16 |
Lana-Peaceエッセイ「9歳のこどもが胸に抱いた石」(北海道虻田郡洞爺湖町・高砂貝塚) |
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<参考文献> |
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<図> |
図1 |
里浜貝塚4号人骨石膏固定, 早坂一郎(1919)「再び宮戸島の遺跡に就て」『現代之科学』7(4),
p.10 図引用 |
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<写真> |
写真1 |
里浜貝塚 大正7年出土人骨見取り図
(奥松島縄文村歴史資料館・展示パネル) 2019/7 当方撮影, 番号追記 |
写真2 |
里浜貝塚 大正7年出土人骨見取り図 第12号人骨
(奥松島縄文村歴史資料館・展示パネル) 2019/7 当方撮影 |
写真3 |
宮戸島里浜貝塚出土の合葬人骨,
引用元:諏訪元ほか(2017)『人類先史、曙
東京大学総合研究博物館所蔵明治期等人類学標本101点写真集』東京大学出版会, p.17 |
写真4 |
写真引用前掲書3, p. 17 |
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2020/6/8 長原恵子 |
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