鹿角製垂飾品と共に眠った3000年前の赤ちゃん
(宮城県東松島市・里浜貝塚) |
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品名: |
深鉢型土器に埋葬された人骨と鹿角製垂飾品 |
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出土: |
宮城県 里浜貝塚 台囲地点(平成10年調査) |
時代: |
縄文時代晩期前葉 |
展示会場: |
奥松島縄文村歴史資料館
(宮城県東松島市 2019/7 当方撮影) |
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宮城県仙台市から北東に約20km、独特な入り組んだ地形と大小200余りの島々が集まった松島湾が広がります(図1)。松島は日本三景の一つと数えられていますが、美しい多島海の景観は地球の大規模な気候変動の歩みによって生まれてきたのでした。今から約2万年前の最終氷期の最盛期以後に起こった温暖化により、約8500年前に海水面が上昇して入江が形成され、約7700年前には更なる上昇によって内湾が形成され、約4500年前頃に海水面はほぼ現在の水準に達して、現在の松島に近い安定した地形になりました(※1)。
この松島湾エリアには数千年前から人々の暮らしが営まれており、その痕跡として見つかる貝塚は約70カ所にも上ります。
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それらは北側の松島遺跡群、西側の七ヶ浜遺跡群、東側の宮戸島遺跡群に大別されますが(図2)、今日取り上げるのは宮戸島遺跡群の中の「里浜貝塚」です。
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宮戸島は松島湾の中で最大の島ですが、里浦に面する海岸沿いから丘の方にかけて東西約640m、南北200mに渡るエリアの複数地点から貝塚が見つかっています。
西貝塚(台囲地点)、北貝塚(寺下囲・西畑・里地点)、東貝塚(畑中・梨木囲・袖窪地点)があり、これらがまとめられて「里浜貝塚」と呼ばれています(図3)。里浜貝塚から出土した遺物等は貝塚近くの奥松島縄文村歴史資料館(写真1)に展示されていました。
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写真2は西貝塚の御神木タブノキの近くにある、小高い丘のあずまやから見た海の様子です。写真3は奥松島縄文村歴史資料館近くの県道27号線から見た小さな島の赤い鳥居です。宮城県神社庁のホームページ(※2)を参照するとこちらは伊邪那岐命、伊邪那美命を主祭神とした「熊野神社」だそうです。
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里浜貝塚は明治時代から注目され、大正時代には東北帝国大学の松本彦七郎博士らによって我が国で初めて層位学的発掘が行われました。その後幾度にも渡って発掘調査が行われてきましたが、写真4から9の土器はいずれも冒頭写真の胎児骨の入っていた深鉢型土器と同じ里浜貝塚 台囲地点から出土した土器です。これらは胎児の時代より更に古いものとなりますが、台囲地点に暮らしていた人々の美に込められた思想を垣間見ることができるようです。
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里浜貝塚は平成7(1995)年2月に国指定史跡となり、史跡整備に向けた調査の一環として平成10(1998)年9月末から2カ月かけて鳴瀬町教育委員会・奥松島縄文村歴史資料館により里浜貝塚の台囲地点で発掘が行われました。その結果、縄文時代の竪穴住居(後期後葉 1基、晩期初頭 1基)と遺物が見つかりました。
また9基の土坑が見つかり、そのうち3基(4号、7号、8号土坑)から人骨が検出されました。それぞれの土坑から土器も見つかっており、土器の型式から4号土坑墓は縄文前期、7号土坑墓は縄文後期後葉、8号土坑墓は縄文晩期初頭(※3)と推定されています。
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こちらは台囲地点発掘調査時の第3トレンチの概略図(図4)です。
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8号土坑の長軸長は123cm、短軸長72cmで、埋土には晩期初頭の深鉢型土器と人骨片が含まれていました。8号土坑のすぐそばにあった9号土坑からは、細長い鹿角の端に穴が開けられた垂飾品や海獣類の骨が出土しました。そして8号土坑のそばから冒頭写真の埋設土器(1号埋設土器)も見つかったのです。図4を見ると、その連なった位置から1号埋設土器と8号・9号土坑に何らかの関係性があったのではないかと想像します。1号埋設土器は口側を上にして直立した状態で出土しました(写真10)。現地で断面が観察され、この土器は完形で埋設されていたと確認されたことから、埋葬用の土器ではないか?と仮説が立てられました(※4)。そこで土器内に土が入ったままの状態で、東北大学医学部第一解剖学教室に運び込まれました。
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大学で土が掘り出され、土器の口縁からから2/3ほど土を取り除かれた時、部分的に赤色土が固まっている中から人骨が見つかりました(写真11)。この人骨は月齢10カ月の胎児(※5)と推定され、放射性炭素年代測定により約3000年前の人骨(※6)だとわかりました。
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写真12は奥松島縄文村資料館1階に展示されていた土器と胎児の骨です。土器の内部と人骨が見えるように、土器の壁面一部は外された状態で展示されていました。
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腕なのか足の部分なのか、長骨がはっきり見えます。この世で長く生きることのできなかった赤ちゃんの小さな体の骨が、こんなにも長い時を経ても土に還ることなく骨としての形を保ち続けていたことに、とても大きな驚きと感動がありました。静寂に包まれた館内、しばらくこのお骨の前で私は立ちつくしてしまいました。何だか赤ちゃんから語りかけられているような感覚になりました。
赤ちゃんと共に見つかった赤色土はベンガラ(※7)と考えられています。
資料館の展示解説板には「土器を女性に見立て、亡くなった赤ちゃんが再び母親のおなかに戻ることを願ったのでしょう」と書かれていました。縄文時代の人々はこの世で死が訪れても魂は滅することなく、やがて新たな肉体に宿ってこの世に再び生まれ来る、というように思っていたのかもしれません。あるいはその魂がこの世ではなく死後の世界で生き続けるならば、どうか活き活きと元気に楽しく過ごしてほしい、その願いを込めて活力の象徴とも言える血液の赤を想起させるベンガラを赤ちゃんにかけたとも考えられます。
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土器の外面には縄文が全面に施されていました。現在もその縄文をはっきりと見て取ることができます。縄を転がして作ったシンプルな文様で、決して人目を引くような派手な装飾が取り付けられているわけではありません。縄を転がしたのは一定方向だけではなく、反転させたかのような文様も形成しています。その他、何かの面を押し当てて作られたような文様の部分もあります。それらの縄の文様はまるで毛糸から一目一目しっかりと編み込んだおくるみの編み目のようです。赤ちゃんを寒さから守れますように、そんな親の願いが映し出されているかのようです。こうした素朴な文様は時に思わずホロリとさせられます。土器の型式からこれは縄文時代晩期前葉(※8)のものと考えられています。
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1号埋設土器はCTスキャンで断面撮影され、底部に穴が開けられていることがわかりました(※9)。資料館では高さを設けて土器を浮かせた形で展示されていましたので、穴の様子がよくわかります(写真17,
18)。長い年月によって土の重みで底が割れてできた穴ではなく、意図的にあらかじめきれいに作られた穴だろうという印象を受けます。どんなに土をかけて埋葬されても、赤ちゃんの魂は土器の底の穴から自由に抜け出すことができますように……そんな作り手の気持ちが伝わってくるような大きさの穴です。
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この胎児の骨と共に深鉢の埋土の中から赤彩された鹿角製垂飾品が1つ見つかりました(※10)。資料館では土器に入った骨のそば、拡大鏡の下に展示されていました(写真19,
20)。幅は1cmほど、淡いサーモンピンクと白がまだら模様のようです。元々は全体的に赤彩されていたものが、一部剥げ落ちて鹿角の地の白色が見えてまだらになっているのでしょうか?
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前述の通り1号埋設土器の2つ隣りにあった9号土坑からは鹿角製垂飾品が出土していますが、長さ5cmほどで細長く、若干カーブを描いており、端に穴が開けられています。また、第3トレンチ内で1号埋設土器からは少し離れた位置にあった7号土坑からは、うつぶせに葬られた成人の人骨と共に長さ5cmほどで頭の部分に丸く穴が開けられ、先端にかけて段々幅が狭まっていく細長い鹿角製垂飾品が見つかっています。
再び1号埋設土器から見つかった垂飾品を見てみると、7号、9号土坑から出土したものとはデザインが随分異なりますが、左右対称に加工しようとした様子が伝わってきます。細長い針のような垂飾品では赤ちゃんの肌を傷めるかもしれないと気遣って、こうしたデザインのものを選んだのだろうかと想像します。赤ちゃんのために新しく用意していたものかもしれませんし、母親が普段身に着けていたアクセサリーだったのかもしれません。いずれにしてもこの鹿角製垂飾品は、赤ちゃんのために赤ちゃんと共に埋められた、と考えられるものですね。
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台囲地点第3トレンチからはもう一つ横倒しに埋設されていた深鉢形土器が見つかりました(写真21)。9号土坑から少し距離を置いて1つだけポツンと見つかったこの土器は何だか寂しそうです。こちらは2号埋設土器と称されています。 |
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2号埋設土器内の埋土にも月齢10カ月の胎児と推定される人骨が見つかりました。2号埋設土器から赤色土や副葬品などはなかったものの、土器の型式からこの土器は1号土器とほぼ同時代(※11)のものと考えられています。そして放射性炭素年代測定により2号の人骨は、1号埋設土器の胎児と同様に約3000年前の人骨(※12)とわかりました。
松島湾を望む丘、台囲地点に埋葬されていた二人の赤ちゃん。月齢10カ月の胎児ということは、しっかりとお母さんのおなかの中で育って生まれてくることはできたけれども、病気や栄養失調など何らかの理由でわずかな日数で亡くなってしまったのでしょうか。あるいは死産だったのかもしれません。共にこの世で長い人生を歩むことはできなかったけれども、土器を棺として丁寧に埋葬されたという事実は、赤ちゃんの命を慈しみ、思いが寄せられたことの証の一つだと思います。
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<引用文献・資料, ウェブサイト> |
※1 |
東北歴史資料館(1982)『里浜貝塚I :
宮城県鳴瀬町宮戸島里浜貝塚西畑地点の調査・研究 I(東北歴史資料館資料集 5)』東北歴史資料館,
p.3 |
※2 |
宮城県神社庁ホームページ 熊野神社(宮城県東松島市宮戸字里浜深海) |
※3 |
鳴瀬町教育委員会編(1999)『鳴瀬町文化財調査報告書 第5集里浜貝塚』奥松島縄文村歴史資料館,
p.7 |
※4 |
会田容弘(2007)『松島湾の縄文カレンダー・里浜貝塚』新泉社, p.47 |
※5 |
前掲書3, p.3 |
※6 |
前掲書4, p.48 |
※7 |
前掲書3, p.3 |
※8 |
前掲書3, p.4 |
※9 |
前掲書3, p.4 |
※10 |
前掲書3, pp.3-4 |
※11 |
前掲書3, p.7 |
※12 |
前掲書4, p.48 |
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参考: |
里浜貝塚パンフレット |
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里浜貝塚周辺散策マップ |
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里浜貝塚貝層観察館パンフレット |
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鳴瀬町教育委員会編(1999)『鳴瀬町文化財調査報告書 第5集里浜貝塚』奥松島縄文村歴史資料館 |
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会田容弘(2007)『松島湾の縄文カレンダー・里浜貝塚』新泉社 |
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<図> |
図1 |
松島湾と周辺地域 |
図2 |
松島湾の遺跡群 |
図3 |
里浜貝塚(北・西・東貝塚) |
図4 |
台囲地点 第3トレンチ, 前掲書3, p.28より引用 |
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図1〜3 当方作成
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図4 鳴瀬町教育委員会編(1999)『鳴瀬町文化財調査報告書
第5集里浜貝塚』奥松島縄文村歴史資料館 より引用 |
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<写真> |
写真1 |
奥松島縄文村歴史資料館 |
写真2 |
里浜貝塚から見た海 |
写真3 |
里浜貝塚近くの熊野神社 |
写真4 |
渦巻文様の土器(縄文時代中期) |
写真5 |
写真4と同一土器(直上から) |
写真6 |
土器(縄文時代中期中葉) |
写真7 |
土器(縄文時代中期中葉) |
写真8 |
蛇が装飾された土器(縄文中期) |
写真9 |
写真8と同一土器(縄文中期) |
写真10 |
1号埋設土器 出土時, 前掲書4, p.47より引用 |
写真11 |
1号埋設土器に入っていた人骨と垂飾器, 前掲書4, p.48より引用 |
写真12 |
1号埋設土器に入っていた人骨 |
写真13 |
1号埋設土器と人骨 |
写真14 |
1号埋設土器 |
写真15 |
1号埋設土器 |
写真16 |
1号埋設土器 |
写真17 |
1号埋設土器の底面 |
写真18 |
1号埋設土器の穴 |
写真19 |
1号埋設土器内にあった鹿角製垂飾品 |
写真20 |
1号埋設土器内にあった鹿角製垂飾品 |
写真21 |
2号埋設土器, 前掲書3, p.47より引用 |
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写真1, 4〜9, 12〜20 2019/7 奥松島縄文村資料館にて当方撮影 |
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写真2, 3 2019/7 里浜貝塚及び周辺にて当方撮影 |
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写真10, 11 会田容弘(2007)『松島湾の縄文カレンダー・里浜貝塚』
新泉社より引用 |
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写真21 鳴瀬町教育委員会編(1999)『鳴瀬町文化財調査報告書告書
第5集 里浜貝塚』奥松島縄文村歴史資料館より引用 |
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2020/1/11 長原恵子 |
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