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アート・歴史から考える死生観とグリーフケア |
石に癒しの力を期待した親心
(宮城県東松島市・里浜貝塚) |
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大正7(1918)年、東北帝国大学の松本彦七郎先生、早坂一郎先生らによって宮城県東松島市の宮戸島の里浜貝塚で行われた発掘調査に関するお話、今日はその2回目です。里浜貝塚は後世に何度も発掘調査が重ねられており、東西約640m、南北約200mの領域内のいくつもの地点から遺物が見つかっています。それらの地点は北、西、東貝塚としてまとめられています(図1)が、大正7年の調査はこの中の北貝塚、図2の紫の部分である寺下囲地点となります。
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ここから見つかった縄文晩期初頭から中葉に相当する18体の人骨中、こどもの人骨であった7号人骨はその埋葬方法にある特徴がありました。それは「石」です。7号人骨は埋葬時、東30度南枕とされ、顔も身体も左向きで、両手を真っすぐ伸ばし、両下肢を揃えて膝を折り曲げ、左下にした屈葬が行われていました。松本先生の当時描かれたスケッチの中で、7号人骨に該当する部分を抜き出して、黄色で番号を付記しておきます(写真1)。スケッチの中では身体は右向きの屈葬の人骨の横にVIIと振られ、他に7号人骨と思われるスケッチはなかったことから、解説文の「左」が実際は「右」だったのだろうかと思います。胸部には酸化鉄由来の赤色顔料である丹が付着していました。屈葬のままの身体の長さは一尺七寸、これをcmに換算するとしてみると(1尺=約30cm、1寸=約3cm)、51cmです。
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少し見づらいのですが、7号人骨の骨盤右辺縁に沿うように黒く細い線で囲まれた白い細長の長方形が描かれています。骨盤の右端から黒くぼかしたような帯状の線が墓穴の辺縁から伸びていますが、骨盤中央から出ている太く濃い短い帯状の線と交わって三角形を形成しています。恐らく白い長方形部分は下肢骨を示しているのでしょう。股関節・膝関節共に強く屈曲され、骨盤に下肢が引き寄せられるような形であり、7号人骨の屈葬状態の体長は座高にかなり等しい値であったと考えられます。この値を文部科学省発表による平成27(2015)年の学校保健統計調査年次統計の平均座高(※1)と比較してみると、7号人骨の屈葬状態の体長は5歳未満の平均座高に相当することがわかります。
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■頭の下に置かれた丸い石
7号人骨の頭の下から2つ並んだ丸い石が見つかりました。実寸値の記載はなかったのですが「手頃なる円礫を並べて頭骨は是に枕せり。」(※2)と称されていたので、手掌内に収まるようなこじんまりとした丸い石、といった感じでしょうか。頭の下に置いてもごつごつ痛くないようにといった配慮で選ばれたものでしょう。海辺や川にでかけて角の丸い石を選び拾ってきたのかもしれません。或いは角を丸くわざわざ加工したものであったかもしれません。そうした石を用意する行動は、遺された者にとって亡くなったこどもへ思いを届ける大切な手段の一つにもなったように思います。
このように頭部の下方に石が置かれていた例は、大正7年発掘の18体中、7号人骨のみでした。松本先生はこの件について特に考察は記されていなかったものの、枕の如く石を置いたことには大きな願いが込められていたように思います。例えば当時の人々が石に特別な力を見出し、その力を直接頭に届けたかったと仮定するならば、この子が亡くなる前に強い頭痛を訴えていたり、頭部受傷がきっかけで亡くなった等、頭部が死の原因と強く結びついていたと考えられます。
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■2つの臼玉
更に7号人骨の頸部中央の上から1個、そこと左肩との間の中ほどにあたる灰及び炭の層上から1個、合計2個の臼玉が見つかりました。臼玉とは円柱を薄くカットしたおはじきのような形状の装飾物です。通常、石の中央にトローチのように穴が開けられており、紐を通して首飾りのパーツとして用いられていたと考えられます。7号人骨の臼玉の色は緑黝色(※3)と記されていましたが、松本先生のもう一つの論文ではこの石のことを「青い臼玉」(※4)と記されていました。「黝」は青黒い、といった意味があります。緑黝色・青色と表記されるこの臼玉は青の中でも少し暗く、緑がかった色だということでしょうか。
7号人骨の背骨の下からは灰・炭の層が見つかっており、そこから小型の装飾品らしき破片が得られたそうですが、これは埋葬された7号と関係を持つものとは認め難いと松本先生は判断されていました(※5)。
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18体のうち臼玉が見つかったのは7号の他にもう1体ありました。2号人骨です。写真1からわかるように、7号人骨の近くから見つかっています。松本先生の論文の中では「青年女子」と記されていました。2号人骨は西30度北枕で胴体は仰向けで顔は右向きで、右手を真っすぐ伸ばし左手は肘を曲げて手掌を胸の上にのせた状態で見つかり、両膝を折り曲げて右に倒した状態で埋葬されていたそうです。屈葬の全長は二尺六寸ですから、約78cmということになります。前出の平成27(2015)年平均座高(※6)と比較すると、現代人の10-11歳の座高に相当します。松本先生の2号人骨のスケッチを見ますと股関節は膝関節が肘関節につくほど強く屈曲し、下肢は体幹とZ字を描くような状態で踝は臀部からかなり距離が離れています。したがって7号人骨の屈身時の長さが頭頂部から踵まで測った値であれば本来の座高はもっと短いわけであり、年齢は10-11歳よりも幼かった可能性があります。ただし早坂先生は里浜貝塚から出土した18体について骨格が現代に比して著しく小形であったと記されていますので(※7)、小柄ではあるもののやはり青年の部類ということでしょうか。
2号人骨から見つかった臼玉は第7頸椎右側横突起辺のあたりに1個、下顎と喉頭付近の中ほどに1個、計2個でした。色は7号人骨の臼玉と同じ緑黝色で、炭と灰の層の上から見つかり、更に臼玉の上面から付着した丹が確認されたのでした。2号人骨の頸部と胸部から丹が見つかっていますので、埋葬時に頸部や胸部のあたりに丹を撒かれたことにより、臼玉にも丹が付着したと見ることが自然だと思います。
7号人骨と2号人骨から見つかった同じ体裁の臼玉がそれぞれ2個、それも各自の頸部から見つかっています。2号と7号は家族のような関係性があり、お揃いの首飾りを身に着けていたのかもしれません。
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■里浜貝塚の臼玉とアイヌの青玉
さて、この2号人骨と7号人骨の臼玉について松本先生は「頸に懸けさせて葬りしものならむ。アイヌが支那玻璃の青玉を死者に添ふる事と同式とも見做し得べし。」(※8)と記されていました。この「支那玻璃」とはいったい何でしょうか?「支那」とは清朝末期の19世紀末以降、一時期用いられた中国の呼称であり、「玻璃(はり)」はガラスを指します。「支那玻璃」とは山丹交易によってアジア大陸からアイヌの人々へもたらされたガラス玉のことを示していると考えられます。
アイヌの人々とアジア大陸系の人々との交易は14世紀前半、熊夢祥(ゆうぼうしょう)による北京の地誌『析津志(せきしんし)』の中に登場することが中村和之氏の講演録「アイヌ民族と北方の交易」(※9)「中国史料からみたアイヌの北方貿易」(※10)に示されています。当時大陸側では非常に白いオコジョ(イタチ科の動物)が珍重されており、蝦夷地のオコジョは交易品として高く評価されていたのでした。『析津志』の物産の条に登場する銀鼠(オコジョ)の項目では「遼東骨嵬多之。有野人於海上山藪中鋪設以易中國之物、彼此倶不相見、此風俗也。」(※11)とあります。骨嵬(くい)とはアイヌの人々、野人とはツングース系の人々のことです。沈黙交易と称される当時の交易のやり方は一風変わっており、直接会って交渉するのではなく、サハリンの山や藪に作った小屋に物だけ置いて取引したのだそうです。アイヌの人々からはオコジョの毛皮が、ツングース系の人々からは中国の品々が出されたのでした。少なくとも700年ほど前にはアイヌの人々に中国由来の品々が渡っていたことが史料から確認できます。こうした沈黙交易は双方共に相手側への信用・信頼が大前提であり、互いの立場を尊重していたからこそ成り立っていたのでしょう。
やがてツングース系の人々の子孫である山丹人(※12)は17世紀、清とロシアによる領地係争に巻き込まれていました。これは佐々木史郎氏の論文「清朝のアムール支配の統治理念とその実像」(※13)にて非常に詳しく述べられています。清とロシアは山丹人の住む土地で捕れる良質な毛皮に目を付け、その支配を奪おうと争ったのです。清朝にとって毛皮は経済基盤の一角を担う大切な資源であったのでした。なぜなら清朝の重要な取引先であった朝鮮王室がクロテン、ギンギツネ、オコジョといった高級毛皮を高く評価していたからです。1689年、清とロシアの間でネルチンスク条約が締結され、スタノヴォイ山脈(外興安嶺)以南のアムール川流域全域が清の領土となりました。清は山丹人がそのまま生活できることを確保しつつ朝貢制度を導入した辺民政策により支配関係を築くようになり、後にそうした組織体制は樺太にも及ぶようになっていったのでした(※14)。山丹人が清へ毛皮を上納することにより、清から彼らへ下賜された品々の一部は山丹交易によってアイヌの人々にも渡ってくるようになりました。絹織物や鷲・鷹の尾羽やガラス玉(※15)といった品々が挙がっており、18世紀後半、青島俊蔵らによる『蝦夷拾遺』利之巻の中で登場する「青玉」がこのガラス玉です。写真2は国会図書館デジタルコレクションで確認できる『蝦夷拾遺』写本の青玉記載のページです。赤枠で囲ったところが青玉の由来と入手が書かれている部分です。「大小五色」あったようですが、わざわざ「青」と称されているのは、中でも青いガラス玉が殊更多くもたらされていたということでしょうか。蟲巣玉(むしのすだま)と世間で呼ばれ、蝦夷の海由来の硬玉と考えられていた青玉は実は満州から山丹、樺太経由で宗谷に渡り、米と引き換えに手に入れられたものだと『蝦夷拾遺』には記されています(※16)。青玉の他にも山丹交易で得た鷲の羽や錦などは運上屋へ集められ、商人同士が直に商売をすることを禁じて松前藩が買い取ったことが記されており(※17)、18世紀後半には青玉がアイヌの人々の手元以外にも本州へ渡っていったことがわかります。
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■青玉とアイヌの人々
山丹交易によってもたらされた青玉がアイヌの人々の暮らしの中でどのような位置づけを得ていたのか、垣間見ることができるのが寛政元(1789)年夏に出された古河 辰(古松軒:こしょうけん)による紀行誌『東遊雑記』(注1)です。古河は幕府の巡見使に随行して天明7(1787)年5月初旬に江戸を出発し、蝦夷地に向けて北上しました。そして同年7月下旬に乙部浦、現在の北海道爾志郡乙部町で出会ったアイヌの人々の服装について細かく記しています。その中にアイヌの女性の首飾り「シトケ」(注2)が登場します。あまりにもそれが美しかったことから古河は、いくら値がはっても構わないから入手したいと通訳の山田文右衛門を通して伝えました。しかし女性はその頼みをきっぱり断ったのでした。古河は次のように記しています。
「右の器は蝦夷人のたから物なり。古へより持伝へ此器ばかりは何をあたひに遣わし候ても交易にせざりし物といひし事なり。」(※18)
アイヌの人々の間でシトケがいかに大事にされていたか、そしてその思いを理解した古河の様子が伝わってきます。古河の絵図の描写力は優れており、シトケの写真はなくてもその絵から十分美しさを想起することができます。後頸部は錦、そこから革組を経て胸元に当たる円盤状の装飾物を吊る部分に玉が使われていたことが注釈されていましたので、赤線を引いておきました。ここには「白ト青トノ玉也 赤モ一ツ二ツアリ」と記されています(写真3)。
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アイヌの女性の首飾りのうち、色とりどりのガラス玉を連ね、魔よけやお守りとしての機能があった飾板が付けられたものは「シトキ」と呼ばれ、まつりや儀式の時に身につけていたものだそうです。一方、飾板の無いものは「タマサイ」と呼ばれていました。これら首飾りはアイヌの人々にとって母から娘へと代々受け継がれる宝物であったようです(※19)。アイヌ語で「玉を連ねたもの」という意味である「タマサイ」という響きは、どこか「魂(タマシイ)」に通じるものがあるように感じます。
このようにアイヌの人々が大切にしたガラス玉は、副葬品として死者と共に埋納されたのでしょうか? 関根達人氏は「アイヌ墓の副葬品」(※20)の中で平成13(2001)年3月末までに各研究者から発掘報告された北海道のアイヌの墓(15-19世紀後葉)65遺跡235基中の副葬品についてまとめられています。そちらを参照すると23基から副葬品としてガラス玉が見つかっていました。被葬者の年代は新生児から成人に渡り、1基から出土したガラス玉の数は1個から数百個まで幅広く、中には余市郡余市町の大川遺跡GP-608のように420個ものガラス玉がサメ歯や紐金具、古銭と共に成人男性のお墓から見つかっている例もあります。大川遺跡のGP-346,
592, 600から見つかったガラス玉は青玉だったのでした。乾 芳宏氏は講演「日本海沿岸におけるアイヌ文化」の中でタマサイに利用される玉は意外と大きいけれども、大川遺跡のアイヌの18世紀のお墓から出土したものは全体的に小さく1cm前後の玉だった(※21)と述べています。普段生活の中で用いるタマサイとは別に、死者を弔い送るための玉は別に用意されていたのかもしれませんね。
松本先生が指摘された里浜貝塚の人々の臼玉とアイヌの人々の青玉の共通性とは、大切に扱えば朽ちたり欠けることのない石やガラス玉に永遠性を見出し、その思いを死者に託したことだったのかもしれないと想像します。どちらも死後の生が永く安らかに続くよう願われたことでしょう。
なお里浜貝塚で昭和30、31(1955,
1956)年に行われた発掘調査で発見された10数体の縄文人骨の中で、頭部に浅鉢をかぶせられ翡翠の玉を身に着けた縄文晩期中葉のこどもがいました(※22)。更に平成10(1998)年に行われた発掘調査では縄文時代晩期前葉の赤ちゃんが鹿角製垂飾品と共に埋葬されていました(※23)。こうした例も死後の生を信じる人々の思いの表れだと言えるように思います。
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<注> |
注1 |
明治、大正、昭和に活躍した民俗学者の柳田國男は少年期から何度も読み、今後もまた読んでみたいと思う紀行文を一冊の本にまとめ『帝国文庫;第22篇 紀行文集』として出されていますが、古川辰(古松軒)の『東遊雑記』が収載されており、現在は国会図書館デジタルコレクションで見ることができます。 |
注2 |
現在アイヌの首飾りについて調べると「シトキ」と表現されているものばかりですが、古河の著作の中では「女夷は首に「シトケ」といふものを掛て居たる也。」(※24)とあるように「シトケ」と表現されています。古河が説明を受けた通訳者の発音は「シトケ」だったのでしょう。本稿では古河の乙部浦での記載は「シトケ」とし、それ以降の考察に関する部分は「シトキ」と表現しています。 |
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