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アート・歴史から考える死生観とグリーフケア |
こどもを守り続けた松菊里式甕棺・管玉
(韓国 忠清南道 扶余郡・松菊里遺跡) |
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品名: |
松菊里式甕棺・管玉 |
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出土: |
韓国 忠清南道
扶余郡 松菊里遺跡(甕棺)
韓国 忠清南道
扶余郡 松菊里遺跡 甕棺内(管玉) |
時代: |
韓国 青銅器時代 |
サイズ: |
甕棺 高さ 46.8cm 口径 21.8cm |
管理番号: |
2139(甕棺), 2138(管玉) |
展示会場: |
韓国 忠清南道 国立扶余博物館 (2019/10 当方撮影) |
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百済の最後の都 泗沘(サビ)が置かれていた場所、韓国の扶余(プヨ)は韓国の中西部、忠清南道にあります(図1)。ソウルから約170km南下、高速バスで約2時間ほどで到着する扶余の街中には百済の歴史を感じられる場所がいくつもあります(図2)。泗沘時代に建てられた定林寺址五重石塔、百済第30代の武王が634年に造ったと『三国史記』に伝わり、1960年代に復元された宮南池、百済の王陵で横穴式石室墳が7基ある陵山里古墳群、百済が新羅と唐との戦いに敗れて陥落した時、三千もの官女が白馬江(錦江)へと身投げしたと伝わる落花岩があり、百済の足跡を今も辿ることができます(写真1)。
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定林寺址から東南に500mほどの距離に国立扶余博物館がありました。韓国の国立博物館は広々とした敷地を確保しているところが多いのですが、敷地に入って直進すると左手に児童博物館があり、その奥に特別展用の展示館があります。訪れた当日は陵山里1号墳の特別展が行われており、実に見ごたえのある内容でした(写真2)。博物館本館はこれよりも更に奥側に位置しています。本館第一展示室に入ると冒頭写真に出した松菊里(ソングンリ)遺跡から出土した「松菊里式甕棺」や「管玉」他、様々な遺物が展示されていました(写真3)。
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■松菊里遺跡
松菊里遺跡は扶余郡の東端に位置し(図2)、錦江の支流に当たる石城川流域、海抜20-40mの丘陵地帯にあり、全面積は160ha以上にも上ります。扶余博物館からは10kmほど離れており、扶余を訪れた日は時間の都合上、松菊里遺跡まで足を延ばすことはできませんでしたが、いつか訪れる機会が是非行ってみたいところです。
こちらは1974年、国立公州博物館によって発掘調査が行われ、石棺墓1基から遼寧式銅剣、磨製石剣が出土しました。そして翌年から1978年まで国立中央博物館考古課が調査を行い、青銅器時代の住居址や甕棺墓等の遺構や遺物が見つかりました(※1)。これらの時代は紀元前5〜4世紀頃と推定され、ここに数百基の住居址があったと考えられています(※2)。
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■松菊里の生活
出土した遺物等からこの地で二千数百年も前にどのような暮らしが行われていたのか推測することができますが、国立扶余博物館のYouTube解説動画(※3)がわかりやすく出されています。
集落の周囲は円形や方形の穴が設けられ、そこに太さ20〜40cmもの木柱が130〜180cm間隔で集落を取り囲むように立てられていました(※4)。こうした柵は敵となる集団や野生動物から松菊里の人々の生活を安全に守る上で大いに役立ったことでしょう。
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松菊里遺跡の住居はその柱に特徴があり、円形床面の中央に直径1mほどの作業用の楕円形の窪みが設けられ、その両端に2本の中心柱を建てた址が見つかっています(※5)。これは松菊里型住居と呼ばれています(写真4)。
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松菊里遺跡から見つかった土器は平底で口縁が外反した無文のものが多く、この地域の典型的なものであるため「松菊里型土器」と呼ばれることになったそうです(※6)。松菊里型土器は口縁が大きく広がり、胴部は卵形ですが(※7)、土器の外面は縄や枝、石、貝等用いた装飾はなく、いたってシンプルである分、形の美しさが際立ちます。冒頭写真は松菊里型土器が甕棺として利用されたものですが、詳細は後述します。こちらの遺跡からは松菊里型土器の他、紅陶と言って無文土器に比べて地の土がごく細かく、 表面に酸化鉄を塗ってこすって焼成した土器も見つかっています(※8)。
松菊里遺跡54-1号住居址からは395gもの炭化米が出土し、円形住居址からは籾の痕跡のある土器片が発見されました(※9)。コメの収穫時、稲穂を刈るために用いられたと考えられる半月形石刀や三角形石刀も見つかっています(※10)。また、松菊里遺跡の丘陵傾斜面から見つかった窯址から、稲藁の痕跡のある赤土の塊が多数発見されました。窯の壁を構築するために赤土の中に稲わらを混ぜたと考えられています(※11)。当時の人々はコメをフル活用した生活を送っていたわけですね。その他、繊維を紡ぐ石器の紡錘車も見つかっており(※12)、当時のそうした堅実な暮らしぶりは人々の身体や心の基盤を支え、抽象的な精神文化を育む礎になったことでしょう。
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■松菊里の甕棺墓
いよいよ冒頭写真の甕棺の紹介です。松菊里の甕棺墓の特徴は実生活で使われた松菊里型土器の底に穴をあけ、甕棺よりやや大きい穴を上下二段に掘り、甕棺を立てて埋めた後に石蓋をするところです(※13)。松菊里遺跡の中で甕棺は竪穴住居址の周りや近くで発見されました(※14)。同遺跡からは石棺が数基見つかっていますが、こちらは遺跡の南側傾斜面に突出した丘陵頂上部にありました(※15)。掘った穴の中に石板を並べて棺として用いられ(写真5)、棺の底から遼寧式銅剣・銅鑿・石鏃・曲玉・管玉・磨製石剣が出土しています(写真6)。石棺の大きさは長さ205cm、最大幅100cm、深さ80-90cm(※16)もあるため、住居のそばではなく特別な場所を確保する必要があったとも考えられます。
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■誰が埋葬されたのか?
展示会場の解説板には甕棺の大きさから幼いこどもが埋葬されたと考えられるものの、成人の洗骨葬として甕棺が用いられた可能性があると記されていました(※17)。洗骨とは遺体が朽ちた後、骨を洗って埋葬し直す方法です。国立扶余博物館による展示品紹介書籍には「碧玉で作った管玉が副葬品として埋葬されてあって,子供の墓と思われている.」(※18)
と表現されていました。成人の洗骨葬であれば管玉だけでなく、石棺から出土したように剣、石鏃といった戦いや狩猟のための道具が甕棺内に副葬されるだろうという考えが背景にあるのかもしれません。松菊里の甕棺は成人の洗骨葬というよりも、やはり幼いこどものお墓として用いられたものだろうと思います。 |
■埋葬方法
下の写真7は扶余博物館の展示コーナーで放映されていた解説用のビデオの一場面です。甕棺を地中に埋納した後、蓋石の上に土がかけられて地面と一体化されていたのか、あるいは蓋石を土で覆わず、誰もが蓋石の存在を視認できるようになっていたのかは不明ですが、このような形で甕棺が埋納されていたわけですね。薄手で細長く、底に向かってすっと絞った形状の甕棺に対して、蓋は随分大きくて厚いように感じますが、それはきっと容易に蓋がはずれずに、甕の内部に埋葬したこどもをしっかり守ってほしいという願いが託されていたからだろうと思います。既に述べたように松菊里の甕棺は人々の住まいの近辺に埋納されていました。もし蓋石が常に地面に露出した状態だったのであれば、存在感のある蓋石を普段の生活の中で見るたびに、亡き子が生者のそばで暮らしの中に溶け込んで、今も共に過ごしているような気持ちになったことでしょう。
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■甕棺の底
さて、甕棺は展示ケース内で少し浮くように設置され、甕棺の底に鏡が置かれ、底部の大きな穴をはっきり見ることができました。これを見た時、直ぐに記憶に蘇ったのが、ちょうど3カ月前に訪れた宮城県東松島市の奥松島縄文村歴史資料館で見た3000年前の赤ちゃんを葬った里浜貝塚の深鉢型土器の底(※19)です。韓国の松菊里遺跡と日本の里浜貝塚は直線距離にして約1,270kmもの隔たりがあり、時代も松菊里遺跡の方が500年ほど新しいわけですが、あまりにも似通っていたので驚きました。
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展示会場の解説板には松菊里式甕棺の底面の穴の意味として考えられることが二つ挙げられていました(※20)。まずは甕棺内部の排水や除湿、極めて実利的な理由です。そしてもう一つはこの穴が棺自体を象徴している、という解釈です。解説板には “The
hole may have also symolized the coffin itself.” とありました。当時の死後の世界観が如実に表れているような気がします。ここに葬られたこどもはやがて、月日と共にここから抜け出して自由になるという発想があったのでしょうか? 肉体が朽ちた後もなお生き続けるものがあると考えていたのであれば、甕の上は遺体が野生動物などに掘り返されることのないようしっかりと守り、甕の底部に穴をあけるという形式は十分に意味を成すように思います。
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■管玉
松菊里式甕棺には碧玉で作った管王が副葬されていました。冒頭写真の管玉は漢字の品名は「管玉」、英語品名は「Tubular Jades」と表記されていました。管状の翡翠ということですね。出土地として「Jar Coffin of Songguk-ri Site, Bueyo」と表記されていました。松菊里遺跡では石棺からも管玉が出土していますが、この写真の管玉は甕棺から出土した管玉、ということです。長い時を経てこんなにもしっかりと形と色を保っていることに大きな驚きがあります。
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翡翠、管玉、こどもの埋葬……ここで思い出したのが以前こちら(※21)で取り上げた北海道虻田郡洞爺湖町の高砂貝塚の土坑墓です。縄文時代晩期のG12号墳墓に埋葬されていた8歳前後のこどもの胸から、翡翠の管玉が1個見つかっています。縦16mm、横14mmの緑翠色の管玉は正面に「入」字状の陰刻され、7mm大の穴が開けられていた(※22)のでした。海を越え、時代を超えてもこどもの弔いの根底に流れる思想は非常に似通っているのだと改めて思いました。
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<引用文献・資料, ウェブサイト> |
※1 |
李健茂(1979)「松菊里の先史遺跡」『韓国文化』1(2), 自由社, p.16 |
※2 |
國立扶餘博物館(1994)『國立扶餘博物館』三和出版社(ソウル), p.140 |
※3 |
国立扶余博物館のYouTube解説動画 |
※4 |
前掲書2, p. 140 |
※5 |
前掲書2, p. 135 |
※6 |
前掲書1, p. 17 |
※7 |
前掲書2, p. 139 |
※8 |
前掲書2, p. 139 |
※9 |
前掲書2, p. 136 |
※10 |
前掲書2, p. 140 |
※11 |
前掲書1, p. 17 |
※12 |
前掲書2, p. 140 |
※13 |
前掲書2, p. 19 |
※14 |
前掲書2, p. 138,
141 |
※15 |
前掲書2, p. 140 |
※16 |
前掲書2, p. 18 |
※17 |
国立扶余博物館展示会場 解説板 |
※18 |
前掲書2, p. 138 |
※19 |
Lana-peaceエッセイ「鹿角製垂飾品と共に眠った3000年前の赤ちゃん」(宮城県東松島市・里浜貝塚) |
※20 |
国立扶余博物館展示会場 解説板 |
※21 |
Lana-peaceエッセイ「出産時の悲しみを癒す勾玉(北海道虻田郡洞爺湖町・高砂貝塚) |
※22 |
三橋公平ほか(1987)『高砂貝塚 噴火湾沿岸貝塚遺跡調査報告2三橋公平教授退職記念号
』札幌医科大学解剖学第二講座, p.31 |
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参考: |
國立扶餘博物館(1994)『國立扶餘博物館』三和出版社(ソウル) |
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李健茂(1979)「松菊里の先史遺跡」『韓国文化』1(2),pp.16-19, 自由社 |
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<図> |
図1 |
韓国 ソウルと松菊里遺跡の位置関係 |
図2 |
扶余の歴史遺産と松菊里遺跡 |
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図1〜2 当方作成
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<写真> |
写真1 |
百済にまつわる歴史遺産(扶余) |
写真2 |
国立扶余博物館(企画展覧館) |
写真3 |
松菊里式甕棺と管玉 |
写真4 |
松菊里遺跡55-2円形住居址, 前掲書1, p.16より写真引用 |
写真5 |
松菊里遺跡 石棺墓, 前掲書2, p.18より写真引用 |
写真6 |
松菊里遺跡 石棺出土品, 前掲書2, p.18より写真引用 |
写真7 |
国立扶余博物館 館内解説動画(松菊里遺跡) |
写真8 |
甕棺底部と鏡 |
写真9 |
鏡に映った甕棺底部 |
写真10 |
管玉 |
写真11 |
管玉 |
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写真1 2019/10
韓国・扶余にて当方撮影 |
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写真2-3,
7-11 2019/10 国立扶余博物館にて当方撮影 |
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写真4 李健茂(1979)「松菊里の先史遺跡」『韓国文化』1(2), 自由社
より引用 |
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写真5-6
國立扶餘博物館(1994)『國立扶餘博物館』三和出版社(ソウル), より引用 |
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2020/1/25 長原恵子 |
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